- ナノ -




「ああ、月島君。丁度良かった」


げろげろん。
会いたくない人の番付けで二番に位置する人に会っちゃったよ。
あ、ちなみに一番は芹沢さんね。当然。

新見さんはいつもと同じ気色悪…げほん。
底意地の悪そうな笑みを浮かべて私の方に歩み寄ってきた。


「実は墨がなくなってしまったんです」
『そうですかぁ、大変ですねェ』
「君、何処からか持って来てくれませんか?どうせ、暇でしょう」


暇じゃねェよ。
私が今両手一杯に洗濯物抱えてるのが見えないのか。
こん中にはあんたのだって含まれてんだ、と内心毒付く。


『すみません、私忙しいので』
「君は居候でしょう。少しの頼みくらい聞くのが普通でしょう」


私が居候なら貴方達は何かなぁ。
あ、金食い虫?遊戯にばっかお金使ってるもんね。
ていうか、それは人に物を頼む態度なのかなぁ。

百歩譲っても私は芹沢さんの小姓で、新見さんの小間使いじゃない。
そんな私には彼に踏ん反り返って命令される筋合いはない。


『ご自分で行かれた方が早いと思いますよ?』
「じゃあ、頼みましたよ」
『え。ちょ、待って…!!』


こっちは忙しいんだという意思表示をしようと思ったのに
新見さんは返事を聞く前にすたこらさっさと部屋に戻って行った。
行くって言った覚えはないのに、何か行くことになってるし。


『…ああ、もうっ!!』


叫ぶと、お腹の虫がぐうと鳴った。
…くそう、洗濯物があるからまだ朝餉食べてないってのに…
新見さんの方が百倍暇そうなのに、どうして自分で行かないんだ。
嫌がらせか。

新見さんにも苛々するけれど「私は了承してないも〜ん」と開き直って
墨云々のことを無視出来ないで結局調達に行っちゃう自分に一番腹が立つ。
お人好しなのか単純なのか分からない自分の性分が憎い。

私は合唱をするお腹の虫を無視して…駄洒落じゃないから。
山のような洗濯物を抱えて井戸へと走り出した。


********


『山南さん、ちょっといいですか?』


怒涛の勢いで洗濯物を片付けた私は、八木邸に赴いていた。
墨を持っている人といえば、山南さんだろうと思ったからだ。
土方さんも持ってそうだけど、あの人を見ていると動悸がするから却下。

それは別に「ああ…胸が高鳴るわ」的な恋愛感情じゃなくて
寧ろそういう気持ちは全くと言っていいくらいなくて、ただ単に土方さんが綺麗過ぎて
女として敗北感と嫉妬を禁じえないからである。

あの人は鏡を見て自己陶酔とかしないんだろうか。
自分の外見に劣等感を持ってる人は軽く死にたくなるくらい美人なんだけど…
自分で自分を格好良いとか思わないのかな。…思うわけないか。


「月島君ですか、どうぞ」
『あ、失礼します』


思考が飛んでて、山南さんの返答に応えるのを忘れていた。
はっと我に返りつつ襖を開けて中に入る。
すると墨の匂いがふわっと薫ってきた。

おお…何か懐かしい。
私も小さい頃は寺子屋に通ってたり家で論語を教わったりしていたから
結構墨の匂いには馴染みが深い。
ほわわと気持ちを浮かせて、床に散乱する書き損じの紙を見た。


「何か、御用ですか」
『えーっと、新見さんが墨を欲しがってて…少し、分けて頂けませんか?』
「墨ですか。構いませんよ」


普段あんなに仲が良くないのに、こう素直に相手の欲しがる物を差し出す辺り
優しいなあ大人だなぁって感動してしまうのは、私がいつも芹沢さんに
扱き使われて心底疲弊しているのが理由だろう、そうに違いない。

私は「ありがとうございます」と礼を述べ、墨を受け取った。
墨を渡してくれた山南さんの手は、真っ黒に汚れている。
ずっと書類を書いていたみたいだ。


『顔色が優れませんね。大丈夫ですか?』
「ご心配には及びませんよ」
『お仕事が大変なのは分かりますが、あまり無茶はなさらないで下さい』
「考えなければならないことが多いんですよ」


まあ、それも分かるけど。
何か後見になってくれる会津藩との話し合いも進んでないみたいで…
色々試行錯誤を繰り返さなきゃいけないっていうのは理解してる。

でも、徹夜したりして体壊したらそれこそ元も子もないじゃないか。
会津との話が本格的になったら、山南さんはきっと忙しくなる。
それなのに今からふらふらになるのが良策とは思えなかった。


『お食事はちゃんと取った方がいいですよ。勿論、睡眠も』
「君こそ、ちゃんと眠った方がいいですよ」
『え』
「隈が出来ています」
『…私は少しでも寝てるからいいんです』


て、言っても一刻くらいだけど。
日が昇る直前まで繕い物してて、いつの間にか意識が遠のいたっていうのが本当。

でも寝てないわけじゃないから、私の勝ちだ。
山南さんだって隈出来てるもんね。
と、訳の分からない勝負心を発動させて開き直った。

「寝ないのと少しでも寝るのじゃ全然違いますから」
私の忠告に「心得ておきますよ」と山南さんは笑った。