- ナノ -



『助けてくれた人に、お礼を言ってくる。それなら、文句ないだろ?』
「え?…あ、ああ…」
『なら、井戸借りてもいい?顔洗いたいんだけど』

一週間も眠りっぱなし。
だからか、いまいちきちんと意識が覚醒しない。
冷たい水で顔を洗えば、すっきりして目が覚めるだろう。

井戸の場所を聞くと、平助が答えてくれる。
彼は案内も申し出てくれたがやんわりと断り、歩き出す。
気を付けてな、という平助の声を背中越しに聞いた。


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『えっと…井戸井戸…』

教えられた方へ歩きながら、キョロキョロと辺りを見回す。
この辺にあると思うけど…
一人ごちて足を進めていると、視界の端にそれと思しき物が映る。

見付けた。
庭の片隅にぽつんと鎮座する井戸。
私は近付いて、釣瓶を使い水を汲み上げる。

汲み立ての水を手に掬う。
冷えていて、顔に掛ければすぐ目が覚めそうだ。
何度かぱしゃぱしゃと水を掛けて、冷たさを味わう。

『…ふう』

懐から手拭いを取り出し、濡れた顔を拭う。
睡眠の余韻もすっかり抜けて、気分爽快だ。
上機嫌になって、息を静かに吐き出した。

すると。

「そこどいて。邪魔だよ」
『えっ…』

背後から私へと、向けられたであろう声音。
反射的に声を零し、振り返ろうとする。
しかし背中に掛けられた圧力に、よろめき地面に腰を着いてしまう。

折角洗ったのに、手に土が付いてしまった。
持っていた手拭いも汚れてしまった。
いきなり何を…と、私は頭上にいる男を睨んだ。

『いきなり突き飛ばして、どういうつもりだ!!』
「随分な挨拶だね。礼儀がなってないんじゃないの」
『それはこっちの台詞!後ろから突き飛ばして、礼儀知らずはあんたじゃないか!』

声を荒げるが、男がちっとも悪びれない。
寧ろふてぶてしいくらいだ。
冷ややかな口調を崩さず、言い募る。

「そんな所にぼけっと突っ立ってるのが悪いんだよ」
『顔を洗ってたの、見て分からない?』
「この井戸は君一人の物じゃないし、僕が気を遣ってあげる理由もないし」
『なっ…!』

男は私を見下ろしたまま、冷めた目をしている。
悪意がしこたま込められている台詞を次々に吐いてくる。
それが私の神経に障る。

ぴきりとこめかみに青筋を浮かべ、立ち上がりながら眼光を鋭くする。
しかし男は、動揺の欠片も見せない。
私みたいな奴、怖くも何ともないといった様子だ。

「何?そんなに気に入らないなら、剣で決着つける?」
『…剣?』
「腰に刀、差してるみたいだしね」

随分と好戦的…いや。
わざと私を怒らせて、闘いに持ち込もうとしている感じ。
…その手には乗るか。

『刀は、抜かない。剣なんて使わない』
「へェ、怖いんだ?」
『私は、あんた達みたいに野蛮な奴とは違う』

刀なんて絶対に抜くもんか。
私はこんな男と私闘する為にこれを持ってるんじゃない。
自分の芸技を、馬鹿げた争いで使って堪るか。

誘いに乗らず、挑発を流す。
その態度が気に入らないのか、男は言った。

「見かけ通り、腰抜けなんだね。さっきまで地面に座ってた子らしいよ」
『…』
「情けないなぁ」

何も反論しないのを良いことに、重ねられる悪口。
私は怒りに、ふるふる震えた。
…何なの、このすこぶる口の悪い男は…。

すっぽん少年に、乱暴者。
筋肉男に、悪意の塊?
本当に、どうなってるのよ?


ここに、まともな人間はいないの?