──オオ、カミ…っ
固まった脳内で、目の前の生き物の名前を呟く。
声にならなかったのは、口が動かなかったからだ。
「グルルル…」
牙を剥き出したその隙間から、低く低く、唸り声を響かせる。
威嚇しているのか、それとも獲物を見付けた喜びに喉を鳴らしているのか。
どちらかは分からなかったけど、正直どちらでも良かった。
ただ俺はこの場から逃げられればそれでいい。
たったそれだけのことなのに。息の吸い方と共に、身体の動かし方まで分からなくなってしまった。
──あ…あぁ…あ‥
馬鹿みたいに脳内で繰り返す言葉は、ただの音の漏れでしかなくて。
何も考えられずただ目の前にあるものを脳に映していると、だんだんその映像さえも歪んでくる。
俺はあの鋭い牙に、喰い殺されてしまうのだろうか。
屈強な前肢で身体を押さえ付けられて声を上げることも出来ず、己の肉体が千切れていく音を聞きながら…
そんなのは…
‥──嫌だッ!!!!
固まった脳を打ち砕くように、力強く誰かが叫ぶ。
途端に手足の感覚が戻ってきて、やっと呼吸が出来るようになった。
これで現状が打破できるようになった訳ではないけれど。
最初の頃より幾分か回る思考に身を締めて、浅い呼吸を繰り返しながら逃げるタイミングを計り始める。
…にじり、
狼が一歩前に出る。
それでも俺は動かない。
…にじり、
狼がもう一歩前に出る。
俺は右足に体重を乗せる。
…にじり、
狼が少し頭を下げる。
俺は少しだけ背中を丸める。
──「グァオッッ!!!!」
狼が鋭い牙を向けながら飛び付いてきた瞬間。
俺は右足を軸に身体を半回転させ、攻撃を避けながら勢いよく駆け出した。
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