人は声から忘れていくらしい。
次に顔、次に仕草、そして記憶。

残り続けるのは彼女への想い。





庭に椿が落ちている。
早咲きのそれは冬のこの時期になっても花が落ちることは無いらしい。白い雪に染まった其処に咲く赤は景色によく映えていた。
窓の外の景色から室内に目を向け直す。
流れるような藍色の髪、透き通るような白いうなじにくらりとめまいがした。

『髪を結ってほしい』

そう彼女に言われたのは少し前のことだった。
女性の髪を結った経験は少ない。いや、無い。
オレに頼むよりも侍女に頼んだほうが良いだろう、彼女は器用だし、自分で結ったほうが手早いだろう。
分からない。彼女が何を考えているのか、真意が読み取れない。
しかしどうせ最後だ。今日一日の、髪と手の触れ合いくらい、あいつならば許してくれるだろうと、オレは自分に都合よくあいつの気持ちを捻じ曲げた。

さらりさらり…引っかかることなく、櫛が髪を通り抜ける。
無言の空間、たださらさらと髪が踊る音だけが響く。
いたたまれなくなり、ネジが口を開いた。

「明日、ナルトとの式だそうですね」「…うん」

分かっているくせに、と心の中で嘲笑した。
知らないわけが無い、彼女のことを応援し続けていたオレが、一番大切な日を失念するわけが無い。
なぜ今更そんな。選ぶ言葉を間違えるなどオレらしくもないと、オレは再び嘲笑。
冷静に、平生の自分を取り戻せ。その言葉を何度も繰り返した。

「オレのような分家の、しかも男に髪を触らせてよろしいのですか?」
「いいの。ネジ兄さんは私の兄さんだし…ナルト君もよくわかっているから」

笑っている、穏やかでやさしい笑顔。明日にはたった一人の男の者になってしまう笑顔。
いつも彼女はあの男を見ていた。顔を赤らめる彼女を、あの男にならば托せると思えた。それが彼女の幸せで、正解で、その結末を願うべきだと思った。

「ネジ兄さん、ネジ兄さんも明日は来てくれるんだよね?」
「…明日は」

この展開を、始まりを願っていた。
願いながら協力した。願いながら戒めて、願いながら封じ込めた。
強固に固めていたはずの嘘の壁、明日も守り続ける自信など、無い。
見たかったはずの笑顔、それを見に行くことを、オレのすべてが拒絶していた。

「…明日は、行けません」

無理に笑顔を作ってみせると、ヒナタ様は「そっか」と残念そうに笑う。
きっと彼女は不審に思っているだろう。彼女は知らない、知らないから。
追求されなくて本当によかったと思う。彼女には無知なままで行ってほしい。何も知らないで、オレのことを「優しい従兄」だという記憶だけを残して。

「はい、できましたよ」

仕上げだとばかりに庭先のあの花と同じ色をした布で飾り付け。蝶々結びという名前のとおり、彼女の髪に赤い蝶がとまっているように見えた。
横で結ったその髪を、そっと彼女の左肩に下ろすと、彼女は「ありがとう」と笑う。
最後の笑顔。オレは瞬きひとつせず、それを見つめた。

「…オレは自分の家に戻りますね。明日結婚なさる方が、従兄とはいえいつまでも男を部屋に入れるものではありませんよ」
「あ…兄さんっ」

立ち上がったオレのすそを、唐突にヒナタ様がつかんだ。
何かあったのだろうか、その行為に少し胸を高鳴らせる浅はかな自身に嫌悪しつつ、オレは彼女に問いかけると、彼女はすまなそうにぱっと手を離した。

「ご…ごめんね。なんでもないの…ごめんなさい」
「…そうですか」

何か言いたいことがあったのだろうか、それを追求する勇気はオレにはない。
聞いてはいけない、聞いてしまったら終わりのような気がした。

「…おめでとうございます、ヒナタ様」

部屋を出る間際、オレは振り向いてできる限りの優しい声でその言葉を贈った。
笑えていただろうか、声は震えていなかっただろうか、彼女はどんな顔をしていたのだろうか、それ以前にオレを見ていたのだろうか、分からない。

部屋を出た廊下は、いつもよりも色褪せて見えた。

「好きでした」なんて、幸せそうな貴女には言えない。言えるわけが無い。
(だからオレは「行ってらっしゃい」と背中を押すんだ)

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