Other Dream






 秋も終わりに近づいてきた頃、レストランの看板を『open』から『close』に裏返してから店回りを箒で掃く。時刻は21:00ちょうど。今日もギリギリまで待ったが来なかった。レーガは一人、ふう、とため息をついて眉間を押さえた。体調には別段問題はない。ただ、彼には一つの憂いがあった。

最近、茜の姿を見ない。



 茜とは今年の春にギルドの募集に当選してやってきた新米牧場主だ。タウンの外れの山の頂に住み着き、かつてから住む老婆からアドバイスを受けつつやっているらしい。自宅の料理ではいまいち元気になれないし栄養もとれないから、という理由でちょくちょく茜はレストランにやって来ていたものだから、仲良くなるまでに時間はかからなかった。どこの誰から聞いたのか、誕生日には全身ずぶ濡れの状態でうにを笑顔で差し出されたこともあった。ケーキの味について意見をくれたときは、結構わかる奴だななんて関心もした覚えがある。ああそうだ、体調が悪いときは……色々迷惑かけたけど、それでもあいつ笑ってくれたっけ。
 思い出していくにつれて感情が段々と高まっていく。と同時に、不安も募り出した。毎日レストランに足を運んでくれた彼女は、秋になってから途端に姿を見せなくなってしまった。大体昼頃に貿易ステーションにやってきているとはヨーナスから聞いているが、定休日の日であろうと中々茜の姿をレーガが目撃することは叶わなかった。そうしてそのまま、もうすぐ三週間が経とうとしている。
 何度か牧場まで足を運んでみようかと悩んだ。しかし所詮は店主と客の関係にすぎないであろう自分がなんの口実もなく茜のもとに自ら行くのは気が引けた。「会いたい」という理由はあるにはある。が、言われる茜の気持ちを考えるとどうもそれは口にはし難かった。



 そうしてぐずぐずと決めかねながら閉店ギリギリまで茜を待つ日々が数日続き、唐突な変化が訪れた。山頂の老婆が病死したという連絡がギルドから町中に広まったのである。
 葬儀は老婆が暮らしていた山頂で行われるため、朝からレーガは大勢の街の人々とともに山を登った。あれだけ行くのを迷った山頂にこんな形で行くことになるとは思っていなかっただけあって、足取りはひどく重たかった。
 葬儀にはタウンの全員が集まり、当然そこには全く会うことができなかったあの少女の姿もあった。群衆の隅に立ち、エプロンの裾を握って前を見ているように見えたが、具体的に何を見ているのかは読み取れない。涙は、遠目から見ても流れていないように見えた。メルティやルッツ、マリアンが話しかけている姿もあったが、そのときは笑っていたように見える。ただ、その笑顔もまた虚しげだった。
 葬儀が終わっても、エッダさんの牧場が茜に引き継がれる関係で使われていた建物が撤去され終わっても、雪が降りはじめても茜は立ち尽くしていた。それを知っているのはオレも立ち尽くしていた一人だったからだ。気づけば近くまで来て隣に立っていたが、茜はオレに気づいているはずなのにオレに目を向けはしなかった。

 「…なあ、茜」

 とうとう誰もいなくなってしまったところで
ようやく口が開いた。冷たい風と雪と、ずっと立ち尽くしていたせいで滑舌はいつもより悪い。茜は動かない。冬の始まりだ、寒いだろうにその体は凍ってしまったようにひとつの震えも見せなかった。
 色々言いたいことはあった。最近来なかったのはエッダさんを看病してたからだったんだなとか、そのままずっとここにいたら風邪引くぞとか、あったがまず出てきた言葉は「泣けよ」というたった一言だった。茜がのろのろとようやくこちらを見る。今日、はじめて目があった。念を押すようにもう一度言う。泣け、と。
 「…でも」とようやく茜が声を出す。ひどく弱々しくあまりにもか細い声だった。吹き消せばすぐに消えてしまう蝋燭の灯火を見た瞬間、レーガは彼女の細い身体をその両腕の中に閉じ込めていた。もう一度「泣いていいんだ」と促す。泣き声は響かなかった。吹けば消えるような嗚咽は日が落ちるまで続いた。



 「…すみませんでした」
 「いや、何度も謝らなくていいよ。大変だったな」

 こと、と座らされた緑のテーブルの前にミルクティーが置かれる。眼も頬も真っ赤に腫らした茜はさながらウサギのようだ。一人用の小さなテーブルを挟んで前に座る茜はやはり表情が秋の始まりに見た頃よりは一層暗く、覇気がない。元々小さい子だなとか、華奢そうだとかそんなイメージを春から抱いていたが今はちょっと息を吹けばなくなってしまいそうなくらい茜が小さく見えた。
 ――あれから。この家にはじめて足を踏み入れることになった発端は茜の嗚咽以外にくしゃみをする音も聞いたからだ。長時間野晒しになっていたのだから風邪を引くのも当然だ。レーガも当然明日にはどうなっているかわからないところだが、レーガは今は自分よりも目の前の少女のほうが気になっていた。しかしそんなレーガの心配をよそに茜はミルクティーを用意したあともごめんなさいごめんなさいと付き合わせたことについて謝り倒してくる。参ったな、とレーガは頭を掻いた。この子は本当に、いつも他人のことばっかりだ。

 「本当にオレのことはもういいから。それより体冷えただろ、体調も崩すしオレのことはいいから着替えるなり風呂入るなりした方がいい。オレもこれ飲んだら帰るからさ」
 「で、でも…っ……レーガさんだって体調きっと私のせいで…だから…」
 「オレはどっかの牧場主みたいに焼き芋と焼き魚だけで生活してないからそんなにヤワじゃないって」
 「で、でも…〜〜っ…じゃあせめてあれ持ってってください!」

 玄関のそばを茜が指差す。かさ、という呟きが付け足されてどこを見たらいいのか合点が行った。緑色の傘が立て掛けられている。なるほど確かにないよりはましだ。ありがとう借りてくよとレーガは人当たりの良い笑みを返す。色々と他にも言いたかった言葉はあったが、それらは全て熱々のミルクティーと一緒に飲み込んだ。話せるなら勿論レーガも色々と話したいことがあったし聞き出せる気持ちは全て引き出したいと思っていたが、生憎茜もレーガも身体が湿った状態だ。レーガはともかく茜は風呂に入りたいところだろう。それを待っても良かったのだが、恋人でもない男に居座られることになる茜の立場を考えると、やはり今日無理に話をするのは気が引けた。何度も立ち止まろうとしたが、やはり最善策はこれなのだろう。レーガはがたりと立ち上がりながら椅子をひいた。

 「ごちそうさま。やっぱり茜の牧場のミルクは品質がよくて良いな、美味かったよ」
 「い、いえ、多分…シルクロードの国のお茶の葉がいいんだと思います」
 「はは、そんな謙遜するなって。じゃ、傘借りてくから」
 「はい」

 立て掛けてある傘を腕に引っかけて、そのままその腕を持ち上げて手を上げる。「じゃ、また明日」と言ったのは、明日あたりレストランに来てくれたらその時に話せる時間を作ろうと考えたからだ。それに、明日からまた茜はレストランに来てくれると信じたから。本当に、何気ない挨拶だ。
 茜も軽く手をあげて「また明日」と頬笑む。ドアを閉じた向こう側の景色は薄暗さに覆われてしまっていてよく見えなかった。

 ーーそして、その後も茜はレストランに姿を表さなかった。



 …なんでだよ。
 カチャカチャと皿を洗いながらレーガは一人そんなことを毒づいた。ランチタイムが終わり客の波が引いた時間もいつもならば気は抜けど他のことに思考を飛ばすことはあまりなかったが、こんな日がかれこれ13日も続くとさすがのレーガも苛立ちを感じ始めていた。
 傘はまだ返せていない。直接渡したかったのだが、最近の茜は不在が多く渡すタイミングが掴みにくい。このタウンにいないんじゃないかと錯覚したくなるほどに、茜はレストランどころかタウンでも見つからなくなった。やめていなくなったのではという話も聞いたが、ベロニカや貿易商いわく出荷はまた律儀にしているようだ。つまりタウンに降りてきてはいるらしい。なのにレストランには顔を出さない。ちらっと聞いたがイリスさんやクラウスさんも前はよく遊びに来てくれたのに最近はとんと姿を見ていないという。タウン中の全員を避けているようだ。どうしてそんな行動をまだ続けているのか、わからずレーガは首を傾げる。ドアが開くと同時にベルが鳴ったのはそのときだ。反射的に営業スマイルを顔に貼りつけ、「いらっしゃいませ」とドアのほうに向かって声をかける。いつもならば水をすぐに用意してメニューを持ってくるところだった。本来ならそうしていただろう。しかしレーガの身体は思うように動かなかった。

 「茜…」
 「…お久しぶりです、レーガさん」

 にこっと眼を細めて今まで何事もなかったように茜が笑う。だが明らかにその笑顔は以前と比べてひきつっていてぎこちない。あれから笑顔を作るようなことを一切してこなかったのではないかと疑うほどにその笑顔は引きつっていた。

 「久しぶり。最近どうしてたんだよ、全然見なかったから心配してたんだぞ」

 なるべく怒りとか不安とか、そういうマイナスなものを露わにして茜を怯えさせないように努めて明るめに接する。いつまでも席に座らず玄関先に立ち尽くした茜は、「ちょっといろいろあって」と言葉を濁した。…その返答のせいでまたちくりと胸が痛む。ここには二人しかいないのに、茜とレーガの目線は合わない。

 「きょ、今日は渡したいものがあって。それ渡したら帰ります」
 「渡したいもの?」

 こくり、と茜がうなずく。ちょっと待っててくださいとかなんとか言いながらがさがさと鞄の中身をあさり、ラッピングされた何かをカウンター越しに手渡してくる。差し出してきた腕が以前見た時よりも細いような気がして、プレゼントよりもそっちに目が行った。

 「感謝祭のプレゼントです。今日そういえばそうだったって思いだして、それでレーガさんにはいろいろお世話になりましたし、絶対渡さないとって思って、だから」
 「……」

 言葉が頭に入ってこなかった。こんな風に茜の顔や腕を観察するのははじめてこのタウンに細っこい身体の女の子が牧場主としてやってきた時以来だ。あの時は「こんなのが鍬を持ったり牛を押したり出来るのか」と値踏みするように眺めたものだ。たまにふとしたときに「よくこんな細腕でしっかりやってるよな」とちらっと見たこともあったか。だけどこんな気持ちで腕を見るのは初めてだ。目の下の窪みも前より黒くなっているし縁も赤い。立ち直れていない、ということがありありと伝わった。

 「…レーガさん?」

 いつまでも受け取らないレーガを不思議そうに茜が見上げる。やっとはじめて目が合った。悪い、と言ってとりあえずプレゼントを受け取る。わざわざオレのために用意してくれたと思う気持ちもあるが、それで心は晴れそうになかった。カウンターを出て茜を一度通り過ぎる。また不思議そうに名前を呼ばれたが無視をしてレーガはレストラン前の看板を『Close』から『Open』に裏返す。つまり外からは逆の意味に見えるわけで。気づいた茜は「えっ」と声を上げた。

 「今日はもう営業終わり。適当にカウンター座って。何か作るからさ」
 「えっ、でも…営業終わりって」
 「いいから。そんな痩せこけた奴帰すわけにはいかないだろ。いいから大人しく待ってて」
 「……」

 困った感じで立ち尽くす茜をよそ目にキッチンに戻ってフライパンを熱し始める。茜はぼんやりと立ち尽くしていたが野菜を刻み始める音に気づいた時点であきらめたように椅子に座った。無言の空間の中に何かを油で炒める香ばしい音だけが響く。やがてその音もなくなり、かちゃかちゃという食器の音だけが響きだした。茜はその間、以前ならばレーガのその料理をする姿を爛々とした目で見ていたところだったのだが、今日はぼんやりと下を向いていてそのまま動かなかった。みじろきしたのはレーガが茜の前に出来上がった料理を置いた時だ。ほわりとしたトマトの香りが茜の尾行を擽る。茜が収入が増えた夏頃になってから頻繁に食べていたオムライスが目の前にあった。「食えよ」と言われて少しして、「いただきます」と茜がそっと手を合わせる。一口一口少しずつ食べていく姿をレーガは無言で見ながら、何気に茜の体調を確認していた。ちゃんと食べられるあたり拒食症にはなっていないことに胸をなでおろした。
 食べ終わったところで紅茶を淹れて持ってきたレーガが空になった皿と交換でカップを置く。さて、と隣に座って茜に「なんか言うことあるだろ」っと尋ねると、「ごちそうさまでした」と頭を下げられた。そうじゃない。それもそうだろうけどそうじゃなくて、とレーガはため息を吐いた。

 「『また明日』って言っただろ。なんで今まで顔見せなかった?」
 「あ…。……」

 レーガの言いたいことが分かった茜がすっと目を伏せる。構わずレーガは「クラウスさんもイリスさんもだけど、フリッツとかも、みんなお前のこと心配してたんだぞ」と追い打ちをかける。俯いた茜は何も答えなかった。はあ、とため息を吐きながらレーガは頭を掻く。何も言わずに耐えてきたが此処までくるとそろそろ感情を抑えるのも限界を超えそうだった。怒鳴りつけたい気持ちもあったせいか、単純に茜の押し殺す態度を哀しいと思っているせいか、絞り出した言葉は震えていた。

 「…オレは、アンタにとってそんなに信用できない相手かよ」

 びくりと茜の肩が怯えるように跳ねた。「そんなんじゃ…」という呟きが漏れる。分かっている。信用されていないわけじゃない。レーガだってそれを分かっていた。分かっていたのだが、感情の方が先行してしまって理屈を考えられなかった。

 「じゃあなんで何も言ってくれないんだよ!人が迷惑かけた時はアンタ色々オレのこと心配してくれてたよな?なのになんでこっちのことは拒絶するんだよ!アンタにとってオレは、オレたちは一体何だったんだよ…」

 言いたいことを言いきったところで心がすっとすることはなかった。目の前にいる茜はぽろぽろと涙を流しながら「ごめんなさい」を繰り返していて、やるせなさだけがその場に残ることとなってしまった。そんな顔をさせるつもりはなかったというのに。単純に心配していて、話を聞くだけのつもりだったのに。追い詰めてどうするんだ。落ち着け、と律するように頭に手を当てる。「ほん、とうは」という絞り出すような声が響いて目を向けた。

 「…すぐ、立ち直ろうと思って、ちゃんとレストランにも行こうと思ってて…っでもまいあさ…!おばあちゃんのお墓を見たら、かなしくなっちゃって、早く笑わないとおばあちゃんだって心配するのにって…!わかっててもうまくできなくて、…っみんなはちゃんといつも通りができてるのに、わたしだけ出来な…っわたしだけいつまでも落ち込んだ姿見せられなかっ…」

 堰を切ったように語られた事実はあまりにも健気で悲痛で、思った以上に胸に刺さるものだった。確かに立ち直るまでに時間がかからなかった自覚はある。毎日やることはあったし、山頂の老婆と自分の接点は死んだ祖父とのつながりくらいしかなかった。ずっと喪に服すわけにはいかないという意識が働いたこともあるし、何より、目の前で自分以上に悲しんでいる少女がいたから、そっちへの心配の方が強く働いた。
 ずっと悲しんでいるわけにはいかない。その考えが逆に茜を追い詰めていた。どうしようもない感情を抱えたまま、茜だってなんとか立ち直ろうとしていた。それに気づくとひどくやるせない気持ちになって、「もういい、もういいから」とレーガは茜をあの日そうしたようにその腕に抱いた。

 「泣いていいから。もう大丈夫、頑張ったな」

 やっぱりこの言葉はあの時言うべきだったかもしれない。「大変だったな」より言うべきだった言葉をかけると茜はさっきよりも大きな声を上げて泣いた。ずっとひっそりとしか泣けていなかったのだろう。いや、もしかすると涙を一つでもこぼすたびに強く目をこすって抑えていたかもしれない。そんなことを想像しながらレーガはあやすように茜の背を撫で続けた。



 ――…どれくらいそうしていただろうか。ごちゃごちゃになっていた意識がようやく鮮明になった時、茜ははじめて窓の外が暗くなっていることに気づいた。あれっ!?と驚いた茜がパニックになると、気づいたレーガが「ん、起きたのか」と頭上から声をかけてきた。

 「え?起きたって……私ずっと寝てたんですか!?」
 「ちょっとだけ。まだ冬だし日が傾きだしたら落ちるのもあっという間だから。立てるか?」

 レーガが身体を離して茜に手を差し伸べる。「送るから、帰ろう」と言われたままに茜は頷いた。泣きつかれたせいか感情をぶちまけたせいかずいぶんとしおらしくいうことを聞くようになったな、とレーガは苦笑いした。
 外は珍しく朝と同じ晴れのままだった。その分空気がいつもより冷たいが吹雪くよりは断然ましだ。白い息を吐きだしながら「本当にもう少し人に頼れよ」と言い聞かせる。歩きにくい雪道を進むためにお互い下を向きながら踏みしめていく。茜は二拍くらい間をおいて「そうでしょうか」と呟いた。「そうだよ」とレーガは茜には見えずとも頷いた。

 「いろんな奴に頼られてるんだしさ、頼れるときはアンタも人に頼れよ。泣きたいときは泣けばいいと思うしさ、本当に。笑うのと同じ感覚でもう少し悪い感情も人に出しちまえよ」
 「…そんなことしていいんでしょうか」
 「いいんだよ、現にアンタもすっきりしただろ?オレもちゃんと泣いてもらってホッとしたしさ。安心させる意味も含めてもう少し頼っていいんだって」
 「…安心」

 そう、と反芻された言葉に頷く。それからはまた無言だった。これ以上何か言うとごり押しもいいところだし、茜も何か考え込んでいるように見えたからそっとしておくべきだと思った。そうして無言で歩いていくとやがて高原の牧場が見えてくる。落ち込んでいても仕事はちゃんとやっているようで、亜麻や牧草、そのほか花が育てられているのが見えた。遠くからは牛や羊の声も聞こえる。其処まで来たところで茜が立ち止まって「ありがとうございました」と頭を下げた。顔を上げたときの笑顔はまだあまり上手ではなかったが、最初見た時と比べて大分マシな顔になっているように思えた。

 「いいって。ちょっとはマシになってよかったし、力になれてよかった」
 
 素直に顔を見た感想をレーガが述べると、茜はちょっと俯く。少し照れている様子だった。何か言いにくいことでもあるのかとレーガは首を傾げる。しばらく待って、「ほんとうに」という言葉がごにょごにょと続いたが、「ほんとうに」以降は聞き取れなかった。「ごめん、もう一回」と困った顔で「1」という形を指で作ると茜は「えっ」と目を見開かせる。よほどもう一度言うことが恥ずかしいのか、躊躇うように顔を背けたが、じっと見つめてくるレーガに観念してもう一度呟く。今度は聞き逃さないようにレーガは耳を澄ませた。

 「…!」
 「あっあの!じゃあ私、これで!本当にありがとうございます!」

 臨界点を越えたと言った感じで耳まで赤く染めた茜が家畜小屋のほうに向かって走り出す。と思ったらぴたりと足を止めてくるりと此方を向いた。小さく手を振ってくる表情は、落ち込んだ跡を引いているがレーガの見覚えのある茜の笑顔だ。

 「また、明日」

 投げかけられた約束にレーガも「また明日な」と言い返す。背を向けて歩きだした先は自宅の方向ではなく、多少の寄り道先だった。次の日には更地にされてしまったかつての『ひだまり牧場』の片隅にある老婆の墓の方まで歩みを進める。花はこの時期はりんどうやスノードロップなど、悪い意味の花しか取り扱いが無いからか供えられていなかったが、その代わりに墓石は隅まで綺麗に手入れされていた。
 軽く手を合わせて、「もう大丈夫だと思います」といった旨の言葉を唱えて立ち上がる。茜が小声で言った言葉を頭の中で思いだしながら、頭を手で押さえる。頬が熱くなったのは茜だけではなかった。多分落ち着いても自宅に戻って感謝祭のラッピングを見た時にまたぶり返すのだろう。ああ、これは春の感謝祭の時のことを今日から考える必要があるかもしれない。
 もうあの子は大丈夫だ。不安に包む冬はまだ中盤を迎えたばかりだったが、それでも少しずつ彼女は悲しみを乗り越えていくのだろう。そんなことを確信しながら、レーガはもう一度茜の最後の言葉を思いだす。感謝祭…とは思ったがその前になんとかして茜から裁縫工房をうまい口実をつけて借りる方法を考えるべきかもしれないと思った。



End.



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