Other Dream


柄でもないことに、



『あの、このハンカチ、あなたのですよね?』

今は亡き母が繕ったそのハンカチを手に、その女は戸惑いの色をその顔に浮かべていた。
『…』
自尊心か、それとも羞恥か、我はなぜかその言葉に素直に肯定することができなかった。

悩んでいるうちにも目の前にいる女は『あの…』と、ますますうろたえの色を見せている。
我はどうすることもできず(素直に肯定すればよいものを)、そのままそのハンカチをその手から奪い取ってしまった。
礼の一つも、言うことができないまま。


しかし、その女と接触する機会はいくらでもあった。
女は我と同じクラスだったのだ。
上手くいけば、礼の一つや二つ、容易に言うことが出来る。
接触するための策を練り、それ通りに実行すれば、あとはもう完璧だ。
我の策に一寸の狂いはない――と、当初は思っていたのだが、大きな誤算があった。

言葉すらかけられない。
目も合わせられない。

そう、誤算とは我自身のことだ。
我がこんなにも情けのない男だとは思わなかった。


だが、それでもやはりまだ機会はあった。
我が通い詰めている図書室に、その女も通い詰めていたのだ。
いつも物語に耽っていて、我には全く気付いていないようだったが。
しかしそこならば、人も少ないことも助けとなり、我は礼を言うことが出来るだろう。

しかしそれでもやはり礼を言うことが出来ぬまま――…いつしか半年の時が過ぎてしまっていた。
流石に諦めるべきだったのかもしれない。
しかし、いつの間にやら我の目的は変わってしまっていたのだ。

――彼女を、見ていたい。

そんな、切実たる一つの思いに。


他の女は我を見るなり黄色い声。
ステータスのため、というのだろうか?
そのような理由で近づいてくる者たちばかり。

しかし、彼女は違った。
我を、一人の「人間」として見てくれている。
こやつならば、我を理解してくれるかもしれない――…。
「一人きりでよい」と思っていた我が、初めてそう願った瞬間であった。


そして望んでいた機会が訪れたのはそれからさらに二月後。
図書室の本の並びが変わり、彼女が本に懸命に手を伸ばしているところを、我が助けてやったのだ。

『あ、ありがとう…えっと、毛利君…だよね?』

戸惑いの色のないその笑顔。
我が言えなかった言葉を、いとも簡単に口にした素直さ。
柄でもない話なのだが、その笑顔を見た瞬間、我は落ちてしまったのかもしれない。

“恋”という、まやかしに――…。


だがしかし、我は何を思ってしまったことやら。
彼女に近づく前に練っていた我の策では、「我も礼を言うことがある」というべき場面だった。
だが、思ってしまったのだ。
感じてしまったのだ。

見たい。
欲しい。

この素直で無垢な女の体を流れるそれが、どんな色をしているのか、どんな味をしているのか。

その衝動が体を襲った時には、もう遅かった。
気づけば彼女の首元に噛みつく我の牙。

確かに、古から、生き血を啜り生きてきたという記録が、我が家には存在していた。
血を餌にして生きてきたのだと、そういう一族だったと聞かされていた。
しかし、今も血を啜る必要はない。
時代が映るにつれ、その衝動に似た習性も収まっていったのだと。
それなのに、その女の血を舐めて喜ぶ我はいったいどうしたことか。

体を震わせる彼女の反応を楽しむがごとく、首筋を舐める。
現れたその赤は、幼き頃に作った擦り傷から流れた我の血よりも鮮やかに見えた。
錯覚か、それとも彼女だからか、金属の味が少しだけ甘いような気がした。


「…はぁ…っ」

そして、十分な血を吸ったところで、ようやく彼女から唇を離す。
つうっと垂れた唾液が、彼女の白い首を汚した


「も、毛利、君・・・?」

どうしたら良いのかわからない、とでも言いたげな瞳。
しかし、ついついやってしまった我も、これから如何すればよいのか分からない。

さて、如何するか。
本当のことを言えば、我は確実に彼女に嫌われるだろう。
実は吸血鬼だ――と、他愛もない嘘をついてみようか。
しかし我にはもともと、このような吸血行為をする趣味はない。
ならば一定の時期に起こると言えば良いのだ。
なぜ彼女でなければ駄目なのかと言われた時の為に、都合よく話を作って。

あとは、その「時期」とやらが終わるまでに、彼女を惚れさせればよいだけのこと。
我が策に狂いはない。

「我は―――…」

柄でもないことに、
嘘をついてでも、手放したくないものを見つけてしまった。


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