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最近、ネジが任務も無いのに日向宗家に行く日が増えた。
あたしが退院した直後からだ。
何か悪いことがあるのか、大事な話をしなければならないのか、ネジはそれすらもあたしには教えてくれない。
聞くべきではないことだってある、そんなことは分かってる。
でも、不安で仕方なかったんだ。
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鳴りやむことを知らない時計の秒針、きっちりと閉ざされた縁側に続く障子の向こうは薄暗い。
音楽のないその部屋で、あたしは取り込んだ洗濯物を綺麗に畳む。
退院してから二週間、最初は覚束なかった家事も、以前と同じようにこなせるようになった。
そろそろ一般人として、何か就ける仕事はないかも捜そうという話もネジとするようになった。
…ネジは本当はあまりあたしに働いてほしくないそうだけれど、家事が終われば割と暇になってしまうものなのだ。
それならば何か仕事をするべきだろう。
「よし・・・っと」
綺麗に畳み終わった洗濯物を、綺麗にタンスの中にしまいこむ。
二つ並んだ大きさが違うタンスの片方は、ネジが入院中にあたしの家から運び込んできたらしい。
…あたしが眠っていたときに、あたしの家は壊されたそうだ。
それは当然かもしれない。
聞いたときは「ああやっぱりな」と納得することが出来た。
なんせあの家は所謂、「曰く付き」なのだ。
確かにあの事件の時の死体は処理されたけれど…やっぱり体裁というものがある。
噂は尾鰭背鰭をつけて増幅していく、あたしの家には幽霊が出るという噂があった。
…今まで聞かないことにしていたけれど、一族は気にしていたんだそうだ。
だから主が眠っている今、美瑛宗家の権限で潰してしまおう、ということで…あたしの家のあった場所は、今はまっさらな空き地になったそうだ。
幸い、父母の遺骨はネジとガイ先生が移動してくれたらしい。
美瑛家と日向家の間のあの森に、ひっそりと墓を作ったんだそうだ。
動けなかったあたしの代わりに、あの人たちを守ってくれて良かった。
タンスの中身を少しだけ整え直し、部屋の電気を消す。
チャイム音が家中に鳴り響いたのは、その時だった。
「…?」
ネジは当然、カギを使って家に帰ってくる。
もしかしてお客さんだろうか?
…弱った。あたしは別にネジの妻ではないし、勝手に出ていいものなのだろうか?
でも急ぎの用事かもしれない。
意を決して、あたしは玄関に駆け寄り、その扉を少しだけあける。
「今開けますよー」
聞こえているのかわからないけれど、扉の向こう側に声をかける。
玄関までの一直線を小走りし、扉を開ける。
…一瞬、誰だか分からなかった。
白髪の混じった銀髪の髪、誰かによく似たその出で立ち…間違いなさそうだ。
「お久しぶりです。ライ様」
もうどのくらい顔を合わせなかっただろう。
その人は、「話がある」と、あたしを外に誘き出した。
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「あたしが、宗家に…」
「そうだ。別段悪い話ではなかろう?」
「そうかもしれませんが、それは…」
家の前で行われるその話が、あたしにはとても非現実的なものに思えた。
美瑛家の宗家跡目として、養子に来い。
ライ様が言いたいことはそういうことだった。
確かに、宗家になっても忍びをもう一度やるという必要はない。
宗家が寿命を削って、早々と死んだら終わりなのだ。
「でも、ちょっと待ってください。
あたしは分家で…すでに身体はわずかに衰弱してしまっています。
そんな脆い血を、宗家に継がすことは…それに、分家は宗家になることはできないと、掟で定められていたではありませんか」
「今は掟などと言っている場合ではないのだ。
私ももう年だ…心現象を使わずとも、時期に死ぬ。
舞衣、お前も知っているだろう。美瑛家で今一番若いのは舞衣、お前だけだということを。それにだ」
「レンを里から抜けさせたお前が、責任を取るべき話だと思わぬか?」
――それを聞いた瞬間、あたしの中から「断る」ための口実がすべて吹っ飛んでしまった。
…病院で、聞いた話だ。
一命を取り戻したレン兄さんは、あのあと、空羽とともに里を抜け、遠い国で暮らすようになったと。
一応抜け忍として処理はされているが、事情は知っている綱手様が追い忍は出していないため、今は普通の一般市民として平和に暮らしていると。
でも、美瑛家にとってそれは死活問題だった。
跡目が消えてしまった。
血を継ぐために必要だった存在が、行方をくらましてしまった。
このままでは、美瑛家が滅ぶのも時間の問題だろう。
「お前のせいだ、舞衣」
追い打ちをかけるように、ライ様が笑う。
その笑みは、昔何処かで見たあの恐怖と酷似していた。
「舞衣、お前がレンを追い詰めた。
そんなお前が、平和に、一般市民として暮らしていけると思うな。
お前は美瑛家に償うのだ。
美瑛家のために、宗家のために」
まるであたしを洗脳するかのように告げられた言葉が、ぐるぐると脳の中を駆け巡る。
駄目。駄目。
確かに、あたしは美瑛家を裏切るに等しい行為をしたかもしれない。
でも、レン兄さんは「笑っていた」の。
これが正しい結末だと、あたしは確信できたの。だから。
「…あたしは、間違ったことはしてません」
「ん?」
「あたしはレン兄さんにも、あたしにも、そしてあの人にとっても一番良い選択をしたと思っています。
あたしが一番償わなければいけないのは、二年間あたしの傍でずっと待っていてくれたあの人だけです」
ぴくりと、ライ様の眉が動く。
プライドの高い美瑛家の人を挑発するには十分だろう。
「…どうやら、話し合いでは解決しそうにないか」
「…そうみたい、ですね」
ピリピリとした空気があたりを包む。
後ろで待機していたのだろう、二人の人間が姿を現す。
…まずい。
チャクラを遣えない、さらにまだ走れる身体でもないこの状況は明らかに不利だ。
(日向宗家までの距離は約50メートル…そこまで行けたらネジがいる…なら)
行ける!と思い、鈍い体を走らせる。
その瞬間、がっと体をつかまれた。
しまった、逃げる暇もなかったか…と、あたしが諦めかけた時だ。
「まだ身体を安静にしろと、オレは言ったはずなんだが」
掴んでいた手が優しくなる。
顔を上げるまでもなかった。
「ネジ…」
来てくれた。
助けに来てくれた。
安堵感とともに、ぐらりと力が抜けていく。
「舞衣さん!」という声とともに、ヒナタも後ろから駆け寄ってくる。
そのさらに後ろには、ヒアシさんも立っていた。
「来るのが遅くなって悪かった。
ヒアシ様に説得されている最中に、ライ様がお前と接触しているのに気付いてな…来てみてよかった。どうやら、手遅れにはならなかったみたいだな」
ネジがゆっくりとあたしから手を放す。
それと同時にヒナタが、「舞衣さん、下がりましょう」と耳打ちした。
「…ネジ兄さん、怒ってるみたいですから…」
ひっそりとささやかれたその言葉に顔を上げると、先ほどまでは優しかったその手が、怒りに震えているのが見えた。
「ねぇ、そういえば説得って…今まで何の話をしていたの?」
おとなしく後ろに下がって、ヒナタに聞いてみると、彼女は小さくうなずいてから、「話しますね」と呟く。
ちらりと前をもう一度見ると、ヒアシさんはライ様の所に向かって歩いていた。
なるほど、確かにヒアシさんがいなくなったら、ネジとライ様の間に入る人が誰もいなくなる。
あたしが話を聞く余裕はどうやらありそうだ。
ヒナタもそれを確信したのだろう、ゆっくりとその小さな唇を開いた。
****
ネジは前々から美瑛一族に呼び出されていたらしい。
あたしが目覚めたと聞いてすぐに、一族の人たちが口をそろえてこう言い出した。
『宗家跡目がいないから、代わりに舞衣を宗家跡目として寄越せ』
…ネジは、何を言われるのか、最初から気づいていたらしい。
だから行かなかった。
だから無視した。
…だからライ様はご友人であるヒアシさんを頼った。
日向一族当主であるヒアシさんは、わかっていた。
跡継ぎ問題がどれほど重要かということを。
だからライ様の頼みを断ることは出来なかった。
そこまで聞いたらもう話は分かる。
しかも予想通りの言葉を聞かされるために、美瑛家に行くなんてと反抗するネジを、どうにかヒアシさんは説得していたのだろう。
そのとき、痺れを切らした美瑛家が、あたしに狙いを定めたというわけだ。
それにしても、ネジとライ様が対面したとき、誰も怪我をすることがなくて良かった。
手を出せば、その時点で立場が不利になるのは明白、ネジはよく耐えた。
「ネジ…大丈夫?」
近寄り、壊れ物を扱うようにその手に触れる。
握り続けていたその手の掌には、くっきりと爪の痕が残り、血がにじんでいた。
「お家帰ったら…消毒、しなきゃね」
「…ああ」
ぼんやりと、魂の抜けたような声が響く。
でも、あたしの手を握り返してくるその手は、いつもと同じ強くて逞しいネジの手そのものだった。
「…舞衣」
「ん?」
「…言ってもいいか?」
「お前を貰うのはオレだと」
声は、力強かった。
遠くのほうで驚くライ様の声が霞むほど。
握る手も変わらず、目もまっすぐにあたしを捕らえていた。
…そうよね。
ここまで来たら、言うしかないと思う。
それに、あたしにだってネジしかいないのだ。
受け取られるほう、貰われるほうが相手を一人だけだと決め定める。
おかしいかな、でも本当にネジしかいないんだ。
「…あたしを貰える人なんて、世界にたった一人だけよ」
その言葉の後、ネジは小さく「ありがとう」と笑う。
そして「ヒアシ様、ライ様」と、力強い声で呼びかけてから向き直った。
「ライ様、大変申し訳無い話ですが舞衣…舞衣さんは渡せません」
きっぱりと言い切られた言葉に、ヒアシさんもヒナタも驚かなかった。
ただ、ライ様だけが目を見開いて「何を馬鹿な…」と唸っている。
「ネジ君、君は知らないだろうが、舞衣はうちの息子と幼い頃から仲が良かったんだ。
その息子を追い詰めた責任を、舞衣はとる必要があるとは思わないか?」
「それはとんだ誤解話ですね。
あなたは舞衣さんと関わり合おうとしなかったからご存知ないでしょうが、あなたの息子は舞衣さんをずっと苦しめていたんですよ」
ライ様の眉が少しだけ動く。
…そっか、ライ様はまだ知らないんだ。
あたしが兄さんに脅され続けて、言えなかった事実を。
ネジはそれを利用して、話をうまく進めようとしているんだ。
でも、違った。
「そんなことは、前から知っている」
「…え…?」
自然と、その一文字が漏れた。
知ってた?何を?それじゃあ、つまり。
目の前にいるその人は、唇の端をゆがめて笑っていた。
「呪印も、虐待も、何もかもを私は最初から知っていた。
以前、美瑛家の分家の一人が、そのときの舞衣とレンの心を読んだらしい、私に告げ口をしてきた。
だが…それは全て、舞衣が悪いのだ。
舞衣がレンを誑かしたことが、今回の原因だ。
そうだ、舞衣さえいなければレンは狂うこともなかった。
全ての責任は舞衣にある・・・違うか?」
…ああ、そうだったんだ。
気づいていないとか、そういうことだったらよかったのに。
見て見ぬふりをされ続けていたんだ。
ずっと、気づかないふりをして、素通りされていたんだ。
思考が、ゆっくりと真っ黒な沼底に沈んでいく。
負けたら駄目だと思っているのに、抵抗しなきゃと叫んでいるのに、真実を身体がうまく呑み込んでくれない。
このままじゃ、ライ様の思い通りになってしまう――!
「責任転嫁も甚だしいな」
力強い手と声が、あたしを沼から引き上げる。
しっかりしろというように、あたしの腕をつかむその手が、あたしの正気を一瞬で取り戻した。
「自分で目を背け続けたという事実は棚に上げるのか。
どうせ息子のことも、血を継ぐための道具としか考えていなかったんだろうな」
それから、ネジがあたしを一瞥する。
何か言え、ということだろう。
確かに、あたしの問題なのにあたしが黙り込む問のもおかしい話だ。
…なんでだろう、ネジが隣にいるだけで、出てこなかった否定の言葉が出せるような気がする。
大きく、息を吸う。
あたしを覆い尽くしていた煙のような圧迫感が、今はもう感じられなかった。
「こんな…こんな術と掟に縛られた何も変わらずに同じことを繰り返す一族なんて、滅べばいい」
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「今更の話になってしまうのでしょう。
しかし、父と母のような立派な忍びになるという名目で、寿命のままに消えてしまおうと思っていた日々が終わった今、あたしは今度こそ二人の遺言を果たす必要があると思うのです」
――あなたは、光の中で生きなさい…。
「美瑛家に、行くつもりはありません。
今後かかわることもないでしょう」
取り囲んでいた鎖は、一瞬ですべて砕け散った。
「決まりだな」
ネジが勝ち誇ったようにライ様に笑う。
対するライ様の拳は、先ほどのネジのように怒りで震えていた。
そしてこれが…最後の足掻きだというように、ニヤリと笑い出す。
欲に塗れた傲り高ぶった、勝ち誇ったあの表情。
──ああ、これが大嫌いなの。
「…私は舞衣の伯父だ…!保護者だ!
子供は親の言うことを聞く義務がある!
服従しろ…首を縦に振れ、返事は『はい』だけだ。そうだろう、舞衣──」
凍えるほどの冷たい空気が、ぐらりと大気を揺るがせる。
ぴとりと、首筋にくっついたそれに、ライ様の冷や汗がだらりと垂れた。
「ひ…ヒアシ殿…」
「…いい加減にするんだ、ライ殿」
「・・・こ、これは私と姪の問題…貴殿にだってわかるは…」
「貴様に、姪はおらぬ」
威厳のある声が、ライ様の弱弱しい声を打ち消す。
声の主は、あたしを捉えていた。
「舞衣を、美瑛になど渡さぬ」
人の心を読めるはずの美瑛一族が、人の心を理解できぬとは愚かな話だ。
そう彼は付け足し、ライ様の喉元に添えられていた手刀を解く。
…それを認識したころにはもう、ヒアシさんはあたしたちの前にいた。
「舞衣」
誰かさんによく似た優しい声と、威厳のある瞳に、あたしは「はい」と答える。
呼び方が変わったのは誰かさんの影響なんだろうか、それとも。
「…ネジはまだ若い。
物事の判断がうまく着かないこともあるだろうし、未熟さゆえに何か問題が起こるかもしれない。支えきれない、抱え込みきれないこともあるだろう。そのときは、ぜひ私を頼っても構わない。
…このネジが惚れた女だ。私の娘も同然なのだから」
気恥ずかしそうに言われた言葉、ふっとネジを見ると、ネジも顔を赤くしている。
ネジと反対側の方向、つまり右側を見ると、ヒナタが微笑みながら手を繋いでくれた。
…何を言ったらいいだろう?
「よろしくお願いします」だろうか?
それとも「ありがとうございます」?
でも、それよりも先に飛び出た言葉は、それらとは大分違ったものだった。
「あったかいなぁ…」
その優しさに、眩んだから。
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その日は日向家で、ヒナタとハナビちゃんと食事を作った。
ハナビちゃんとは実はあまり面識が無くて、最初は気まずかったけれど…食事を作り終えるころには、ヒナタのおかげで打ち解けあうことが出来たと思う。
…「あの堅物のネジ兄さんのどこがいいんですかー」とからかわれるくらいには。
そして食事をとり終わり、まずは今後の美瑛一族への対応を決めた。
あたしは美瑛家に、問題のほとぼりが冷めるまで近づかないこと。
どうしてもというときは、必ずネジを連れていくこと。
ライ様の説得は本当に申し訳ない話、ヒアシさんがしてくれるらしい。
「諭すことしかできんが」と苦笑していたけれど…それだけでも十分ありがたすぎる話だ。
そして帰り道。現在。
どちらからともなく繋がれた手、ぬくもり。
すっかり遅くなってしまった夜、星がやけに綺麗に見えた。
「…明日、任務じゃなくてよかったね。
すっかり遅くなっちゃった」
「そうだな…すっかり話し込んでしまった」
「そうね…」
しん…と、冷たい空気があたりを包む。
冬の寒さと、夜の寒さに加えて、蘇る伯父の言葉が微かに心に霜を作る。
さっきまで、あの暖かな世界にいた反動なのかもしれない。
この暗闇の中にいるからかもしれない。
今更になって、何かがあたしの心を支配していく。
さっきまではあんなに強く居られたのに、どうしてだろう?
ああ、きっと、心が落ち着きを取り戻したからかもしれない。
ぽたりと落ちた一粒、後はもう簡単だった。
「っ…ぇ…」
歩みはもう、止まっていた。
憎たらしいほどの温もり、「守るから」とでも言うような心地よさが、涙の落下速度を加速させていく。
限界まで押し殺した声は、梟の声にかき消された。
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「ありがと、ネジ」
腕の中で小さく呟く。
それでも、ネジは離してくれず、少しぶっきらぼうに呟き返すのだ。
『泣きたいときは泣け』、と。
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自責と後悔、その先は
歩いていける、どんな痛みの中でさえも。
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