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目覚めることは怖かった。

変わっていることが怖かった。


二年前から今まで一時停止状態だった世界、

二人でなら、きっと歩ける。

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二年間ほとんど動かしていなかった身体を、軋ませながら歩く。
廊下の端から端まで、休みながら一日四回。

閉じていた眼球も、少しだけ固まっていたから動かしていく。
上目遣いをしてみたり、横目にしてみたり…これは一日十回ずつ。

手の指も動かす。
とにかくひたすら動かす。
ぶらぶらさせてみたり、グーにしたりパーにしたり。
文字や絵を書いてみたり、筆で字を書いてみたり。
スプーンやフォークだけじゃなくて、箸もちょっとずつ使うようにしてみたり。
そうして、使っていなかった身体を、ちょっとずつ動かしていく。

赤ちゃんが四つん這いから、二本の足で歩いていくように。
ちょっとずつ言葉を覚えていくように。
そうしてリハビリを続けていくうちに、だんだんと身体も元の調子に戻ってきて…。
おかゆからちょっとだけ柔らかいご飯に変わりだした時、あたしは退院した。

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「お世話になりました」

深々と、病院の前で綱手様に頭を下げる。
隣で服等が入った鞄を持ってくれているネジも、あたしと一緒に頭を下げると、綱手様は「あまり何も出来なかったけどな」と苦笑した。
「私は眠っている舞衣が、早く目覚めるように何かしたわけじゃないからな。
いわゆる植物状態とはまた何かが違う、脳に影響は何もないのに眠っている。
…そんな舞衣を前に、私は立ち往生することしか出来なかったよ」
少しだけ悔しそうに、彼女は拳を握り締めた。

あたしはそんな綱手様の近くに、靴の素材が纏わりついた足を動かして寄っていく。
砂利のある少しぼこぼこした固い地面を歩く感覚が懐かしかった。
「…そんなことないです。
綱手様は目を覚まさないかもしれないあたしを見捨てないでくれました。呪印だってそうです、それにリハビリも…。
だからあたし、綱手様や看護士さんにすごく感謝しています」
ありがとうございましたと、もう一度頭を下げる。
「…本当にお前には適わないな」
そう言って笑う綱手様の左手には、『退職届』と書かれた緑の紙が握られていた。

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「それにしても、相変わらず賑やかね。この里は。
毎日夢を見ていたあの場所と何も変わらないわ」

隣で荷物を持つネジと並んで歩びながら歩く。
ちらっとその顔に目を向けると…やけに不安そうな瞳と目があった。
「浮かない顔ね。どうしたの?
もしかして、あたしの居ぬ間に部屋を散らかしっぱなしにしていた──なんてこと、ないわよね?」
「…いや、部屋は綺麗にしてある。ただ…」
「ネジ兄さーん!」

「ただ?」と、問いかけようとしたあたしの声は、その大きな別の声によって遮られた。
前方から、髪を揺らして女の人が走ってきている。
近づくにつれ、その人の特徴が明確になっていった。

薄紫色の瞳に、天使の輪っかが出来るほど綺麗な藍色の長い髪。
昔見たときよりも身長は伸びていて、あたしよりもずっと高い。
でも、わかる。この子は。

「…ヒナタ?」
「…舞衣さん…!お久しぶりです。あ…退院おめでとうございます…っ」
にこっとヒナタが優しげにほほ笑む。
その笑みから、かつての内気な少女の面影を、あたしはわずかに感じた。

「本当はもっと話したいことがあるんですが…ネジ兄さん、実は父上が兄さんにその…会わせたい人がいるから来るようにと…」
あたしからネジへと目線を切り替えたと同時に、ヒナタの目が少し険しくなる。
何か大事な話があるのだろう、ネジも険しい眼で頷く。
それからあたしを見て小さく微笑んだ。

「舞衣、出来るだけすぐに戻る。…悪いが、ここで待っていてくれないか?」
まるで親が子供を心配するような瞳で、ネジがあたしを見つめた。
…全く、ネジったら。
確かに眠ってはいたけど、別に退化していたわけじゃないのに。
しかし二歳分の経験の差があるのだ。
それにまだ、二年ぶりの外の世界に、あたしの体が適応していないのも事実。
ネジが心配するのも当然かもしれない。
けど。

「大丈夫よ、ネジ。ここでちゃんと待ってるわ」
「・・・知らない人についてく行ったりするなよ」
「もちろん」
「変な奴に絡まれたら、周りの人に助けを求めるんだからな?」
「わかりましたって」
「…ネジ兄さんがネジお父さんになってる…」

ぽつりと、横にいるヒナタが苦笑いしながらそう漏らした。
的を得た突込みにあたしが笑うと、ネジもばつが悪そうな顔で頭のほうに手をやった。
「…まあいい。行きましょう、ヒナタ様。舞衣、おとなしく待っているんだぞ」
「うん」
…頷いた瞬間、二人の姿が消える。
瞬身の術、というやつだ。

「あたしも同じこと、できてたんだよなぁ…」
誰にも聞こえない程度のつぶやきが、ふわふわと虚空に向かって浮き上がっていく。

今では信じられない話だ。
ずっと見続けてきた夢の中だけのことだったんじゃないかと思う。
目を覚ます直前の、あの光景の後…暗転した世界で何度も起きることを躊躇った。
起きても、あたしのそばにはもう誰もいなくて、実はあたしは美瑛 舞衣ですらなくて、全部一人の少女の妄想なんじゃないか…と。

でも実際は違った。
勇気を出して目を覚まそうとしてみたら、どこかで聞いた詩の一節が聞こえてきて。
それに引かれるようにさらに前に進んでみたら、私の手を捕らえる人がいて。
その人に手を引かれながら前に進んだ先には、夢の中のあの人がほほ笑んで待っていた。

その人は動くことのできないあたしの傍に変わらずいてくれて、ずっと待っていてくれていた。
その人は毎日のようにあたしのお見舞いに来てくれて、上手に動けないあたしに手を貸してくれた。
眠っている最中に誰が来て、何を話したのかということも教えてくれた。

「二年もあたしのためにありがとう」と前に言ったとき、ネジは「お互い様だ」と言っていた。
お互いが当然のことをしただけなのだとも。

恵まれているなあと思う。
愛されているなあと思う。
そしてそれを実感するたびに、あたしも彼から受けている以上に、もっと彼を愛したいとも思う。

「幸せだなぁ…」

自然とその言葉が漏れる。
自然と口元が緩む。
早く戻ってこないかなーなんて、ぼんやりと思いながら、晴れやかな空を眺める。
再びあたしに向かってくるネジの影が見えたのは、そのあとすぐだった。

どうやら少し重い話だったらしい。
少し疲れたような表情をしているネジを、早く家で休ませたかった。

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久しぶりに入った家は、少しだけ荒れていた。
ネジに椅子で休むように言ってから、とりあえず家の中の状況を確認する。

…あたしの部屋は、何故かネジの部屋の隣に移動していた。
買った覚えも持っていた覚えもない服が増えていたり、物が増えていたり。
他の部屋よりも、あたしの部屋が一番綺麗にされている気がした。

とりあえず台所でお茶を淹れ、ネジの前とあたしが座る場所に置く。
そのときちらりと見えたネジの忍服の裾が、少しだけほつれていた。
「…それ、後で直さなきゃね」
「…何がだ?」
「左裾。…裁縫道具の位置、変わってたりする?」
「いや。後で頼む」
「勿論」

熱いお茶を少しだけ啜る。
まだ飲み頃じゃ無かったらしい、舌がヒリヒリと痛みを発した。


「…これから、どうしましょうか」

唐突に、そんな言葉が浮かんだ。

…二年経った。
色々と変わってしまったものもあるだろう。
忘れてしまったこともあるかもしれない。
まずはそれを把握する必要がある。
これからどう生活していくのかも。

そして、ネジもあたしの言葉に「そうだな」と応えた。

「お前がいない間にヒナタ様もそうだが、皆外見が変わったからな…誰が誰だか分からなくなったかもしれないな」
「ネジも忍服変わったよね。
…昔のあれ、どうしたの?」
「…タンスの奥だ」
「…そのまま放置してるーなんて言わないでよ?」
その言葉に対し、ネジは無言だった。
どうやら図星らしい、今度の休日はタンス整理に決定したようだ。

「それにしても、こうして時間が新しく経つっていいわね。
日記とかのページが増えていくみたいで」
「眠っていたからな。
…やはり、止まっていたんだろう?」
「そりゃあね。未来とか現在の木ノ葉の様子なんて夢は見せてくれなかったわよ。
…出会ってから今日までをダイジェストでお送りいたしますっていう夢だったし、長かったわ」

あ、でも良かった、最後のほうにちゃんと起きられて。
人間は自分が「死んだ」と夢の中で認識したら本当に死ぬって誰かが言ってた。
これは死んでも死にきれない、待っていてくれたネジも発狂するんじゃないか……ということを話したら、彼は「助走付けて殴ってでも目を覚まさせてやろう」と、白眼を発動しながら言ってくださった。
…本当に良かった、起きられて。

「んー…まぁ寝たきり生活から解放されたわけだし、また家政婦さんを頑張りましょうか」

伸びを一つしてから立ち上がり、二人分の空になった湯のみを台所へ。
よく考えたら二年たったし、お互い17歳だから、この同棲ってもう「不健全」の枠から一応外れて来てるんだなぁ…と、湯のみを洗いながら思っていた時、小さく肩を叩かれる。
「ん?」
何だろうと思い、振り返ってみたらもうそれは一瞬のこと。
あっという間に奪われた唇、二年振りの愛おしい感覚。

「お帰り」

優しく笑うその人が、この世界は夢じゃないと、静かに諭してくれたのです。

「ただいま」

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あなたにとってそれは本当に些細なことで、

本当にちっぽけなことだったでしょう。

でもあたしにはそれが、

全てであり、支えでした。


始まりは最悪だった。

でも、これからはきっと…。

これは同じ運命を分かち合った、
二羽の鳥の物語。

空を夢みたまま諦めていた鳥が、

羽ばたいた世界から始まる物語。

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動き出した時計
廻る世界でもう一度

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