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避け続けてきたことがある。

(父や母のような、立派な忍)

その思いがただの逃げに変わっていたのは、いつだったか。

****

「母上っ母上!」

トタトタと廊下を駆け回る幼い少女は、ある部屋の前で止まり、ガラッと勢いよく開けた。
「母上っお店に絵本あった!母上の絵本!『美瑛 早苗』って、母上の名前ある!」
息を切らせた少女は、2冊の絵本を手にしていた。
母上、と呼ばれた早苗という名の女性は、まだ3歳のお転婆娘の頭を撫でる。
「あまり走り回ってはいけませんよ。あなたはよく、着物の裾を踏んで転んでしまうのですから」
「だって!早く母上の絵本を買って帰りたかったんだもん!」
「こら、舞衣」
ガラリと、舞衣の背後から誰かが入ってくる。任務帰りだろう、木ノ葉指定のベストを着た彼は、舞衣を軽々と持ち上げ、笑った。

「あまり母上を困らせてはいけないよ、舞衣」
「父上お帰りなさい!あのね、母上の絵本!」
サッと、ごまかしているのか、それとも事情を簡潔に話しているのか、絵本を取り出した娘に、両親共々苦笑した。
「舞衣には、かないませんね」
「全くだ。このお転婆娘は我が家の華だよ。好きな男でも出来たら落ち着きそうだがね。早苗みたいに」
「落ち着くのはきっと思春期ぐらいじゃないかしら?いつか彼氏を連れてきたり、『父上嫌い』とか言い出したりして」
「私、言わないもん!」
「はいはい」
「いつか言うんだろうなぁ…とりあえず舞衣は、馬の骨だろうがサラブレッドだろうが嫁には出さん!」

幸せな家庭とは、まさにこの家のことだろう。
何もかもが満たされていて、少女は幸せな日々を過ごしていたのだ。

「あ、そうだ。舞衣、お使いに行ってくれる?この絵本をね、宗家に届けてほしいの」
早苗は、にこやかに2冊ある絵本のうちの1冊を舞衣に手渡した。
「宗家…?」
はじめて聞く単語に、舞衣は大きな瞳を瞬かせた。
「そうだ。美瑛の集落で、一番大きな家だよ」
「舞衣1人で行かなきゃだめ?」
「ええ。舞衣が早く大人になれるように、まずは1人でお使いをできるようにしなくちゃ」
二人は、不安げな目をする娘に笑いかけた。

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「わぁあ、本当に大きいー!」

舞衣はほう、と溜め息をついた。
絵本にある真っ白なお城ではないけれど、ここもお城みたい。
なら王子様とか、お姫様とか、綺麗なドレス…じゃなくて着物を着て暮らしていそう。
ちょっとだけ舞衣はドキドキしながら、その扉に手をかけた。

びっくりした。
3人くらいの女の人たちが出迎えて、通されたのがこの広い客間。
下座に座り、彼女はようやくこれがただのお使いではないのだと知った。
(どきどき、する)
緊迫感ある空気に、押しつぶされそうな気がする。
早く、早く帰って大好きな父と母の美味しい夕食を食べて、川の字になって寝たい。
その一心で、彼女はやってくるその瞬間を待ち続ける。

ついに、ガラリと扉が開き、舞衣は眼を見開いた。
現れたのは、自分より少しだけ背が高い銀髪の少年だった。

****

テンテンが帰宅してすぐに、舞衣は部屋から出てきた。
その顔は、初めて彼女の演技を指摘したあの時と同じ、いや、それ以上に、暗い。

「舞衣、」

呼びかけると彼女はすっと座り込む。場所はオレの隣。
そのまま舞衣はオレの腰に腕を回した。嬉しい、そう思うべきその行為が、今は痛い。それは彼女の体が震えているからか、それとも訪れるであろう別離に怯えているがゆえか。
「あたしが…あたしが、悪いの」
かすれた声で彼女が呟く。
「あたしが、弱かったから、母上は」、と。

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深夜、目が覚めた。

じっとり汗ばんだ体と、少し湿った感じがする母上の匂いがするお布団。
それなのに、隣に母上はいない。
「・・・?」
おかしい。なんでいないんだろう?

(居間かな…)
あたしは湿ったお布団を捲り、気怠い体を起こして立ち上がる。
暗い。こんなところに一人でいたら、お化けに食べられちゃう。
ゆっくり、ゆっくりとふすまを開ける。
そして、なぜか音をたてないように、あたしはそこへ向かう。

瞬間、飛び込んできたものを見て、私は小さな悲鳴を上げた。
「―――!」
・・・なに、これ。
目の前に、山積みとなった屍。
修業をしている時に、転んだりしたことは何度もあった。血だって、見たことがあった。
でも違う。これは次元が違う。
一瞬見ただけのはずのそれが、眼を閉じても生々しくよみがえる。生臭い匂いが、廊下中に充満している。
このままここにいたら、いきなり足首をつかまれて、ずるずると引きずられてしまいそうだった。

「っ…ははうえぇええ!!父上ぇええ!!」

怖い、怖い、ここから一歩も動けない。
あの暗くて寒いお化けが出そうなお部屋にも戻りたくない。
怖い、怖い、何でなんで。

「舞衣!」

そのとき、前から見知った人が走ってきた。
倒れている屍を踏みつけて、傷ついた体を引きずるように。
「父上!」
駆けつけてきてくれた人に、私は飛びつく。
怖かった、怖かった。でも父上が来てくれたから、もう何も怖くない。

「…父上、何があったの?」
「…説明している暇はないんだ。
舞衣、それより今から大事な話をするから、聞いてほしい」
「大事な話?」

こんなに危ない場所で?こんなときに?
…漠然と、嫌な予感がした。

「舞衣、伝心法のやり方は覚えてるね?」
「・・・うん」
「今から、舞衣に現象法を教える。
ただ、覚えておいてほしい。人は神になどなれない。近づくだけで、大きなリスクを伴う。強すぎる力は、いつか舞衣を滅ぼすだろう」
「・・・ちち、うえ?」

気のせいだろうか。
砂の音がする。
何かが、だんだんと零れ落ちていく音が、赤い部屋に響いていた。

「―――・・・。
よし、覚えたかい?覚えなきゃいけないことが多くてごめんな。
だが、もう一つ覚えておいてほしい。舞衣、この術の代償は・・・命、そのものだ。出来ればこの力を使うことは避け…」

それまでだった。一瞬のことだった。
一瞬で、父上の体が、消えていったのだ。
砂に、灰に、一瞬で。
「・・・え?」
そんな単純な一文字しか出てこなかった。
わからない。わからない。いったい、今、何が起こったのか。

「父上…?」

もう、周りの赤色も、生魚みたいな匂いも気にならなかった。
屈みこんで、今にもどこかに吹かれていきそうなそれを掬い取る。それは、水のようにあっけなく、手のひらを滑り落ちていた。
…集めようがないもの。それでも、このまま放置していいものではないということはよく分かっていた。
さっきの恐怖心はどこへやら、あたしはあの怖い部屋にある適当な小物入れの中身をひっくり返す。そして、さっきの粉を、できる限りその中にしまいこんだ。
同時に浮かんだの母上の姿。

…母上は、大丈夫だろうか?
こんな風に、もしも、もしも母上まで粉々になっていたらどうしよう。
怖くなったあたしは、屍を踏みつけて走り出す。
行くあてもなく、ただ、ただ。

「ははうえ!」
「!?…舞衣っ」

けれどやっと見つけた母上は、たくさんの怖い人たちに囲まれていて、あたしは自分が弱いってことを、戦力にも何にもならないことを、誰よりも理解していたのに、足手まといだって、分かっていたはずなのに。パニックになったあたしは母上のほうに飛び込んでいて。
舞衣、来ちゃ駄目。
そんな声が聞こえたときには、もうあたしは怖い人の腕の中。何が起こったのかを理解する前に、飛び込んできたのは大きな刀。…そして、強い風を感じて。それらを理解したときには、

「はは、うえ・・・?」
「…舞衣、良かった…ぶ、じ・・・で・・・」

父上のように、砂になっていく体。
待って、待っていかないでと、母上を抱き返してもそれはとまらなくて、母上の体が崩れて、消えて、――あたしの、せいで。

「いやぁあああああ!!!」

弱いあたしが、全部悪くて、あたしが、あたしが母上を。――殺した。

****

「…それは、違うだろう」

めちゃくちゃなあたしの言葉を聴いたネジが下した結論は、そのたった一言だった。
ほかのどんな場所よりも一番安心できる彼の腕の中で、その一言を肯定する。
分かってた。分かっている。これはただのあたしの「逃げ」。
母上がどんな気持ちであたしを守ろうとしてくれたか、重荷を背負わせるため、懺悔させる為、そんなことじゃないということくらい、本当はちゃんと分かっているの。

これは、ただの口実。
あたしが「彼」から逃げるための、口実。

「…レン兄さんが、あたしを好いていてくれてることは、もうずっと前から知っていたの」
「……」
「…でも、あたしには怖かったの。受け止められない、互いに傷つけあうことしか、あたしと兄さんにはできないから。あたしの存在がレン兄さんの未来を捻じ曲げて、運命を縛り上げて、レン兄さんもあたしの命を握って、運命を縛り上げて。
…自分勝手でしょう?あたしだけが苦しんでいるみたいなそぶりばかりとりながら、本当はずっと気づいていたのよ」

自分でも気づきたくなかった、本当の理由。
見てみぬ振りをしていたかった、ずっと自分をだまし続けて、隠し続けていたかった。
それは話す相手が貴方だから?貴方だからあたしはこんなにも、自分すべてをさらけ出せるの?
ぽろぽろと言葉があふれ出す。無言で耳を傾けているネジは、いったいどんな表情をしているのか。怖くて、顔を上げられない。それは相手がやっぱり貴方だからで、

「あたし意気地なしなのよ。本当は分かってる、どうしてあたしの伝えたいことがレン兄さんに伝わらないのかも、全部ちゃんと分かってるの。
忍として死にたいんじゃない、違うの。逃げているだけなの、あたし一人が先に逃げて、苦しみから解放されたいだけ。
最初はもうそれでいいって思ったわ、身勝手で自己愛の極みだけど、もうそれでいいって思った。一人で歩けないあたしが選べる逃げ道はそれしかないって。でも駄目なの、今度はネジと離れることが怖くて一歩も動けないのよ…!」

怖い。世界すべてが怖い。
愚の骨頂だと思う、本当に醜いと思う。昔、あの子達に言われたように。
後ろに纏わりつく何かが恐ろしくて、ぎゅっとネジにしがみつく。突き放さないで、ここにいて、受け止めて。

「…オレは、ただの逃げ場所か?」

強く抱き返してくれる腕が痛い。
規則正しく響く心臓の音を聞くたびに、張り裂けそうな痛みを感じる。
痛い。すべてが痛い。
信じたくない。認めたくない。ああ、この想いは。
安らぎだった腕の中、今はもう慰めにはならない。それなのにここに居たいのは何故。

****

『オレがお前の運命を変えてみせる』

あのとき感じていた得体の知れない感情は、今思えばなんだったのか。

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溺れていた記憶
この狭い鳥かごの中で、貴方の手を掴んだまま泣き続ける。答えは見えない。

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