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運命はさらにあたしたちを翻弄する。

踊らせている愚者は誰?

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劇が終わったにもかかわらず、あたしは日向家に居座っていた。
本当は不純異性交遊に当たりそうだし、ヒアシさんが「不埒な!」と言い出すのではないかと思ったのだが…ネジが何かを言ったらしい。付き合い始めた次の日、ヒアシさんがあたしたちを訪ね、こういった。
「これからも末永く、よろしく頼みます」…と。まるで結婚をする時のような物言いだ。
ネジに何を言ったのかを聞いてみても、「さあな」としか答えないし…なんなんだか。

(まぁ悪い気はしないし、うれしいからいいんだけど)

あたしは今日も気怠い体を起こす。
劇が終わってもなお、あたしはこの家の家事をさせてもらっていた。
練習中のある日、「最近、食事をするたびに疲れが取れる気がするんだ」と微笑まれたからかもしれない。
嬉しいのだ。人の役に立てるということが。
思わず頬が緩む。
しっかりしなきゃと、あたしは洗い立ての頬をぺちぺちと叩いた。

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今日は納豆と卵のお味噌汁とニシンと白菜の漬物、そしてごはん。たまに洋食も作るけれど、やっぱり朝は和食が良い。
ネジは、朝から蕎麦ではないけれどニシンが食べられてご機嫌そうなご様子。…美味しいと言ってくれてるけど、それは近くのお店で昨日買ったもの…いや、なんでもない。

(それにしても…)
ちらっと、そう、何となく思う。
…ネジは、確かにあたしのことを好きだと言ってくれた。
あたしだってネジが好きだ。でも、正直あまり何かが変わったというわけでもないし…周りにあそこまでせかされる必要があったのか、と。
ということは、だ。
何か、恋人にならなければいけない事情があったのではないだろうか?世間体というか、何というかの理由で…例えばヒアシさんが「不健全だ!」と怒ったとか。
…あたしはヒアシさんを何だと思っているんだ。

まぁそれはさておき。
手を繋ぐ…は、別にふざけてすることは稀にある。
同棲…という響きはなんだか本当に結婚する前のような感じがするから、同居という言葉に変えておこう。同居は別に、何かやましいことをしているわけではないし、不健全には違いないかもしれないけれど、まあ、そこまで不健全ではない(と信じたい)

(・・・あ)
そのとき、ぼんやりと何かが浮かんだ。今日のあたしは冴えている。
正直、世の中の他の男が皆レン兄さんみたいな怖い人だということを、男女の違いの話を通して自覚したくはなかった。
だから、この手の話は基本、耳をふさいでスルーしている。そのおかげで、あたしは恋愛に疎かった。
しかし、今日は違う。
世の中で言う、何か特別なことでがあるのでは…という電波をキャッチするアンテナ、通称「フラグ」が立っている気がするのだ。
きっとこれが正解だろう。間違いない。
あたしはご飯を食べ終わったネジに、回答を提示した。

「ねぇ、ネジ」
「なんだ。夜はニシン蕎麦か」
「あー…うん、わかった。今日はニシン蕎麦ね。まあ本題はそれじゃないんだけど」
「なんだ。付け合せは南瓜か。食べるならお前だけにしろよ」
「いや…あたしも南瓜は好きじゃないんだけど…それじゃなくて」

駄目だ。話にならない。
もしかしてこの男、よくいる「フラグブレイカー」というやつなのだろうか?こういうタイプは、押してダメでも押すしかないらしい。…前に、いのが言っていた。

「…ネジ、単刀直入に言うね」
「…あ、ああ」
「ネジってあたしとキスしたいから恋人になったの?」
「ぶは…っ」

瞬間、皿を台所に運ぼうとしていたネジが、壁に足の小指をぶつけてしゃがみこんだ。…痛そう。
はれ上がりそうだからと、あたしはテーブルにそのまま置かれている皿を流し場において、救急箱を棚から取り出した。
「大丈夫?」
「…ああ、むしろお前が大丈夫か」
「…そういうってことは、あたしの推論は外れたのね」
「半分正解だが、少し違うな」
どうやら救急箱を出すほどの重症ではないらしい。ネジは救急箱を突っ返してから、ため息を一つ。
そして、睨みつけるように、あたしの顔を見つめた。

「…前の劇でわかってくれたと思っていたんだが、俺はこう見えても嫉妬深いんだ」
「そうらしいわね。リーにもやきもち妬いてたみたいだし」
「…そこまで分かっているというのに、なぜ気づかないんだ。お前は」
「言われなきゃわからないわよ。あたしはネジじゃないんだから。伝心法で見てほしいの?あまりいいものじゃないわよ」
「…恋人になれば」
そこでネジは、もう一度ため息を吐くかのように、小さく深呼吸をした。
「恋人になれば、お前に付きまとってくる男も少なくなるだろう。
そうすればあの時のように、我を忘れて怒り狂うことも減るだろうしな」

ネジの言いたいことが、何となくわかった。
劇練習中のあの夜のことだろう。
幸い、それ以外に何かをされることはなかったけれど…それでも、あの時のネジの表情が、あまりにも兄さんに似ていて…。怖くて、怖くて、あの時の意識はひどく曖昧なものへと姿を変えてしまっていた。
ネジは、気を遣ってくれているんだ。
その気持ちは、伝心法を使わなくてもひしひしとこちらに伝わってきた。

「…だが」
ネジがもう一度、小さく深呼吸をした。
「前にも言った通り、オレだって男だ。独占だけで満足するわけがないだろう?
当然その…あー…」
あ、濁した。まぁ言いたいことは分かるからいいのだけれど…。
(…でも、そっか)
ネジは好き。大好き。自覚したらもう止まらないって本当だったんだ。
あんなにあいまいだった気持ちは、今はもうはっきりと形を作っていて、そしてどんどん大きくなっていく。
だから、ネジが言わんとする気持ちに、できる限り応えたいとも思うわけで。

「…じゃあ、少しだけ、我儘言っていいよ」

だから、こんな恥ずかしいことを言えてしまったんだ。

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「改めて意識する」って恥ずかしい。

すぐ隣に座るその人。重なり合う右手と左手。呼吸する動作もわかるほど近い距離。
ああ、あたし今、ネジの家の縁側で、二人きりで、手、繋いでる。…その事実を自覚すればするほど、体中の熱が、左手と頬に集まっていった。
…ネジは、これがイイのだろうか?こういうことをすると、脳からいい物質が分泌されるという話を聞いたことがある。
悪い気はしないんだろう、けど。

「・・・ねぇ」
あたしが、この沈黙にそろそろ耐え切れなくなってきた。
ネジもそうなのだろう。少し上擦った声で、彼は「どうした?」と呟いた。

「…あ、改めてこうしてみると…結構恥ずかしいのね。これ」
「あ…ああ、そうだな」
「そろそろ…やめる?」
「…いや、もう少し」
「そ、そう…」

あ、少しだけ右手の力が強くなった。どうやら、本当にしばらくこうしていたいらしい。
楽しそうという表情にはちっとも見えないのに、男の子って不思議。
もっとこの年の男子の心理について調べておけばよかった。だって、ネジが今どんな気持ちなのか、まったくわからないんだもの。

「!」
突然の強い力に、あたしは引き寄せられた。
磁石が引き合うように、あたしの体は引き寄せられていく。
向かう先は、地面ではなく、当然ネジの腕の中というわけで…。

…心臓が爆発しそうだなんて状況に、あたしが出くわすことになるとは思わなかった。
いや、そんな生ぬるいものではない。
たとえるなら、伝説の三忍に取り囲まれてしまった状況以上だ。用は死んでからまた死んで、そしてまたさらに死んで…というところだろう。
何はともあれ、このままこんな状況が続いたら、本当に死んじゃう。
もう、これくらいにしてもらおう。それを伝えるために、あたしはいつの間にか閉じていた眼を開く。
ふに…っと、頬に柔らかいものがふれたのは、その時だった。

・・・眼、開けるんじゃなかった。
だって、あたしを見つめる瞳が、あまりにも優しくて。
「舞衣」
嗚呼、声まで優しすぎる。
ネジも、こんな表情になれるんだ。こんな声を出せるんだ。
全然知らなかった。
きっと、ネジのこんな表情を見れたのは、声を聴けたのは、世界であたし一人だけだろう。

それは、なんて喜ばしいことなのだろうか。

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夕方の商店街を二人で歩く。
買い物袋の中には、ニシン蕎麦の材料二人分。
一人でも買い物に行けたんだけど、ネジが買い物袋を持つと言ってくれたし、何よりひとりよりも二人のほうが楽しい。それに、長く一緒に居られる。

…もっと、一緒に居たらだめだろうか?
もっと、もっと近くに。
開いている右手を、そろそろとネジの左手に伸ばしていく。でも、もう少しで届きそうなところで、止めた。
(これ以上は、ダメかな)
何となく、そんな気がしたから。

隣を歩くネジの左手には触れずに、きゅっと右手を握り締める。
しかし、彼には見えていたらしい。
白眼を使っていなくても、伝心法を持っていなくても、あたしの気持ちが見えるのか。それともあたしがわかりやすい動作をしていたからなのか。
なんて考えている間に、しっかりと捕まってしまった右手。
去年…いや、もう二年前になるだろうか?二年前は女の子みたいに細い腕をしていたのに、いつの間にかその腕は、とてもたくましいものになっていて。
いつから、こんなに変わっていたのだろうかとしみじみ思う。

(…あたし、は?)

脳裏に一つの疑問が生まれる。
あたしは何が変わっただろうか?
仮面を外すようになった。無駄に強がってみたり、意地を張ることをやめた。
外見は…身長が伸びたし、体重も増えてしまった。胸もそこそこ出てきたし、大人に近づいてきている。

・・・本当に大切なことを、置いてきたまま。

(…いつか)
いつか、話さなければいけない日が来る。
いつか、解決しなければいけないことがある。

(…でも)
まだ、まだあの話はできない。
幸いネジは、あたしが言いたくないことを深く追及してこない人だ。
だから、まだ、隠し通せる。

「・・・ごめんね」
「?…何の話だ」
「…なんでもない」

今は、まだ。

****

まだ、まだ隠させて。

この夢を終わらせないで。

まだ、まだ、もう少し。

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刹那の幻
壊れることが簡単なことだと、分かってはいるけれどもう少し。


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