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…もやもやする。

原因は分かってる。

でも、心が追いつかない。

自分の気持ち、それすらも分からない。

混乱、していた。

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「さぁ、この真っ赤に売れた赤いりんご、お前さんに一つあげようね」

…あれから、どのくらいの月日が過ぎただろう?
劇本番まで後7日を切った。
それは、あの日から7日を過ぎたと言うことも意味している。

…あの日、あたしはネジに対しての返事を保留した。
あの夜のときのことで、ネジが嫌いになったとか、そういうわけではない。
とにかく自分の気持ちが分からないのだ。
…そりゃあ、あたしだって見境無く男に引っ付いてみたり、泊り込みに行ったりなんて、そんな遊女の様な事はしない。もしもネジ以外の誰かが棒読み演技だったとしても、あたしは泊まってまでの指導をしようとは考えなかっただろう。
この時点で、明らかにあたしが日向ネジと言う男に好意を抱いていると言うことは、明確な事実となる。
しかし、それでもわからな…。

「…はい、ストップ!」
耳元で響いた手を叩く音に、あたしはびくりと跳ね上がった。目の前には、呆れた表情をしたサクラの姿。
「舞衣さん、最近どうしたんですか?ずっとぼーっとして…」
…しまった、本日何回目の中断だろう。あたしは、何度目か分からない謝罪をする。
「…ごめんなさい。ちょっと、考え事があって…もう、大丈夫」
「…そう、ですか」
「じゃあ、続きから!」
サクラがもう一度手を叩く。
あたしは今度はちゃんと演技に入った。

****

「ぜんぜん駄目だった…」
帰りの道の森の中で、あたしは小さく呟いた。
あの日から、ずっと考え事ばかりを続けてしまっている。
ほかのことに、何も集中することが出来ない。
なんとなく、ポーチの中を漁る。取り出した分厚い冊子を、捲る。

…昨日はシャンプーとリンスを三回も間違えている。一昨日は塩と砂糖を間違えた。さらに前は洗剤の量を間違えた。そのまたさらに前は…ああ、どうやら目覚ましの設定時間を一時間も間違えてしまっているようだ。
あたしは、分厚い冊子…いや、「日記帳」を閉じた。
幼いときから綴られてきた短い日記…その内容が、長くなってきたのはいつからだろう?
ここ最近の内容は、自問自答的内容ばかりだ。
「はぁ・・・」
ポーチの中に、それを仕舞い込んで、ため息を吐く。

…これ以上、物思いに耽っていると、夕食を作る時間が無くなってしまう。
そう思い、あたしは今度はきびきびと、日向の家に向かって歩きだす。
…あんな出来事があったというのに、未だに日向家に居座っていられるあたしは結構図太い性格をしていると思う。
気まずくは無いと言えば嘘になる。でも、距離を置いてどうにかなると言う保障は何処にも無い。
それに…まだ、ネジの演技特訓は終わっていない。最初にした約束を、こんなことで覆すのは、可笑しいとは思わないか。
…そう、あたしは建前上、「よく出来た言い訳」を作って、納得する。

「…あ」
ふと、声が漏れた。どうして、気づいていなかったんだろう?
あれほど「考えるのは止めよう」と、自分自身に言い聞かせていたのに。
再び物思いに耽っていたせいか、あたしの足は全く前へと動いていなかった。

****

サクラに呼び出されたのはその次の日のことだった。
女子ご用達甘栗甘、あたしの前には新製品らしい、抹茶ドーム。甘いものが苦手なあたしでも、美味しくいただけるお菓子だ。
そして、あたしの目の前にはサクラ。サクラは、同じく新製品である苺ドームを頬張っている。
何口か食べ、湯飲みの中のお茶を少しだけ飲んだ後…サクラは、ずいっと身をこちらに乗り出してきた。

「で、ネジさんと何があったんですか?」
「…っ…な、なんでネジだと思うの?」
「毎日、ネジさんと一緒に練習に来ていたのに、ある日突然ばらばらに来るようになったじゃないですか」
…この子、本当に鋭い。
いや、きっとこういうことには誰だって敏感なんだろう。
ただ、当事者(あたし)が、気づいていないというだけで。

「…あたしが、やっぱり悪かったのよね」
「え?」
「…いくら任務とはいえ、幼馴染とはいえ…ネジにつらい思いさせちゃったわ」
「…はい?」
「あたしがはっきりしなかったのも悪いのよね…ああ、もっと線引きしておけば…」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

サクラが、あたしの肩をがっと掴んだ。
どうやらまたあたしは、自分の世界に行ってしまっていたらしい。
我に返してくれたサクラに、あたしは一言お礼を言ってから、しっかりと彼女に向き直る。
「…そうよね、話さなきゃ、駄目よね」
奢ってもらった抹茶ドームの対価を、払う必要があるのだから…。

****

ざっくりと話し終わった後、サクラは失笑した。

「う〜わ〜…ネジさん、やるわね…」
「おかげであたしは混乱状態よ…」
「まぁ、確かにそんなことがあったら、誰だって混乱しますよね…」
「さて、それでは舞衣さんに質問です」
くっと、サクラは残りのお茶をすべて飲み干す。そして、それを机に置いてから、あたしをじっと見つめた。

「ネジさんのこと、恋愛感情として好きなのかは分からないって、さっき言ってましたよね?」
「…うん」
「じゃあ舞衣さんは、リーさんとネジさんを同じ眼で見ることが出来ますか?」
「それは…っまぁ…ネジは幼馴染だし、そりゃあ見る目も少しは…」
「・・・質問、変えますね。じゃあ舞衣さんは、ネジさんが…そうね、あそこに座っている女の子と実は付き合っていたりしてたら・・・どう思いますか?」

サクラが見ている方向に、チラッと目を向けてみる。
待ち合わせをしているのだろう。ちらちらと腕時計で時間を確認しながら、二人席の片側に座る女の子。薄紫の花がちりばめられた着物が、その子に良く似合っていた。
「あの人が待っている相手は、ネジさんかもしれませんよ」
サクラが耳元でそう呟く。

…想像してみよう。
やってくるネジ、あたしには気づかず、あの女の子のほうに歩いていく。
笑いあう二人、ネジは女の前に座り、二人で話し続ける。
しばらくして、二人は手を繋いで店を出て行った。幸せそうに、ずっと笑い合いながら。二人だけの世界を作って、時々じゃれあいながら歩いていく。
後ろのあたしに、気づかずに。

「舞衣さんっ!」
突然、どこかから声が聞こえて、あたしは眼を覚ました。
「・・・サクラ…」
「…舞衣さん、あっち、見て」
サクラが指差した方向を見る。さっきの女の子は、ネジではない別の男の人と向かい合って笑っていた。
「…良かった」
自然と、その言葉は漏れた。
あれが現実だったら、きっとあたしは今頃発狂しているだろう。未だにずきずきと疼く胸を、そっと抑える。
それと同時に、またサクラが唇を動かした。

「…舞衣さん、今、苦しいですか?」
「・・・とても」
「舞衣さんがこのままはっきりしなかったら、今の想像はいつか現実になるかもしれませんよ」
がくんと、視界が歪んだ。
「ネジさんがいつまでもあなたの隣にいてくれるとは限らないんです。…舞衣さんが、ちゃんと捕まえておかなくちゃ」
にこりと、サクラが微笑む。
なぜか彼女のほうが、あたしよりも数段大人に見えた。
「出過ぎた発言をしてごめんなさい。劇…頑張りましょう!一緒に!」

遠くなるサクラの背を、ぼんやりと眺める。
さっきサクラから貰った沢山の言葉が、脳の中で乱反射し続けていた。
「・・・あたし次第、か」
ぼんやりと、曖昧だった感情が形を帯びていく。
それはひどく甘い色をしているように見えた。

****

その話を切り出すには、かなりの時間を有したと思う。
台本を読んでいるネジを横目に夕食を作って、テーブルに並べて、座って、いただきます。
その単調な動作をしている間、何度も何度も同じ言葉をあたしは繰り返していた。
ごくりと、生唾を飲み込む。…テーブルの上にあるお互いの皿が、空になり始めた。

言わなきゃ。
すうっと、息を吸い込む。
心臓が引き絞られるような痛みを感じる。
緊張で、頭がどうにかなりそうだった。

「…ねぇ、ネジ」

ぴたりと、ネジの箸が空中で止まった。
顔を見てみると、彼の目が少しだけ動揺の色を見せている。
その人は「お前に名を呼ばれるのは久しぶりだ」と、声を震わせる。
でも、それに答える余裕はなかった。

「あのさ、あの…この前の話、何だけど」
「・・・ああ」
「…あたし、逃げるつもりは無いの。答えはなんとなく決まってる気がする。でも…もう少し、待って欲しい」
「…何故だ?」
視線が一瞬だけ交わる。一秒にも満たない交差。

「分からないの。結局あたしは…あたしが、どうしてネジといたいのか。
幼馴染とか…恩人とか、そういうのはなんか、違う気がする。もっと何かがあるの」
彼は、一度下を向いてから、浮かせていた箸をさ迷わせる。
そして、すっかり湯気が消えた味噌汁を啜ってから、彼は「わかった」と小さく呟いた。

****

それからの練習はまさに順風満帆といっていいほどスムーズだった。道具や衣装も完成し、あとは本番を待つのと、演出の向上を目指すだけ。
それなのに、運命というのは残酷なもので。…そう。物事がこうも上手く運ばれていくわけが無いのだ。
いつもこうだ。上手くいってる時に、あの人があたしの邪魔をする。

本番を明日に控えた夕方の練習場。目の前には塵と化した道具と衣装。
呆然とするサクラたち。「誰がこんなことを…」と怒るキバたち。
…こんなことをする人は一人しかいない。
あの人は、あたしが楽しそうにしている姿を見たくないのだから。

「…サクラ」
ぽんっと彼女の肩を叩くと、彼女は不安げな表情でこちらを見た。
「このまま中止にしたら、犯人の思惑通りになるわ」
「…でも、衣装や道具は…」
「衣装や道具が無くてもできる劇があるわ。・・・抽象劇よ。あれなら、シナリオさえあれば出来るわ」

全員が、怪訝そうにこちらを見てくる。
シナリオが無いから困っているのに、どうするんだという顔だ。

「…成功する保証は無いわ、でも」
「あたしに任せて。…散々迷惑をかけた分、頑張るから」

****

その夜は、眠る暇も無かった。

母が書いたあの絵本にしようか?

一人で木ノ葉の神話を再現してみようか?

…なんて、あれこれ考えていて数十分。

ふと、自分が闘うべき、いや、向き合うべき相手の顔が浮かんだ。

****

迷宮直走
ふと、横で何かの音がした。
見るとそこには湯気が出たお茶。
「ありがとう」「…」
返事はなかった。


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