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柔らかな陽光、

なびく風、

「朝ですよー起きて下さいなー」

…自分の上にのしかかっている、何か。

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「はいっ今日の朝食は鮭の塩焼きに出し巻き卵!漬物と豆腐のお味噌汁と白飯です!」
よくもまぁ起きてすぐに、こんなにたくさんの料理を作れるものだと、ネジは感心してから手を合わせた。
「いただきましょう」
「…いただきます」

舞衣が泊まるようになってから、早一週間が経過した。
毎日毎日行われるスパルタ練習のおかげか、とりあえずすらすらとした棒読みにすることまではできた。本を音読することと何一つ変わらない、台詞にこだわりすぎだ…そう舞衣は言っていた。
しかしまぁ、次からは「棒読みの解消」に話は進むわけではあるが。
…正直、疲れないはずがない。こうして食事を作ってくれることはありがたいが、やはり客人がいることを考えると気を遣ってしまうのだ。

…しかし、だ。
しかし、いい方向に話が向かっていることがある。
舞衣の身体の痣が、薄くなっているのだ。
分家で、使用人もこの屋敷に呼んでいないこの空間。しかし、ここは「日向」の敷地内だ。その空間に居る限り、舞衣は従兄からの苦痛に苛まれることもない。
そういう点から今の状況を見ると、悪いことだとは一概には言えないのだ。

(…あ、これ美味いな)
それに、確かにスパルタだが三食作ってくれたり、掃除までしてくれる。
劇が終わった時には、自分は家事のやり方を忘れていそうだ。
このままいてもらったほうが有り難いのだが…恋人でもないのに、それはおかしい。

ちらりと横を見る。
舞衣は相変わらずの無表情で漬け物を頬張っていた。

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「行くか」
「うん」

ガチャリと、家の扉を施錠する。
隣にはネジ、なんだかこうしていると同棲している恋人か、それとも夫婦の気分になってしまう。そう思っているのは、あたしだけなんだろうか?
いつもと同じように平然としているネジ、何を考えているのかなんて、その顔を見るだけじゃ解らない。
伝心法を使えばきっとすぐにわかるんだろう。
でも使わない。使ってはいけない。それはルール違反、反則だから。

「ハァ…」
思わず、ため息。そしてそれを吐いてすぐに後悔。…どうしよう。もしかしたら変に誤解されちゃったかもしれない。
普段ならそんな細かいことを気になんかしないのに、おかしい話だけれど。

ちらりと、隣にいるネジを見る。
相変わらずの無表情で、ぼんやりと前を見つめていた。

****

二日前から、実際に動きを加えての演技が始まっていた。
衣装や小道具作りも、出番が無い人が作るようになっている。
昨日は継母と鏡の一人芝居、そして狩人と継母の練習だった。
今日は、白雪姫と狩人の演技である。

「白雪姫って何歳だっけ?」
「確か…15歳くらいじゃない?」
「それは子供が聞かされてる話。実際はもっと幼かったはずよ」

サクラといのに、白雪姫の話を確認してもらう。
イメージが崩れるような演技をしたくはない。一度やると決めた以上、徹底的に作りこみたいのだ。
…まぁ、ネジが抱いていた【美瑛 舞衣】を、完璧に作りこむことが出来なかったから、そのリベンジの気持ちもあるかもしれない。
(今のあたしでいることが幸せなんだけど。やっぱり、ね。特技だと思っていただけにね…)
そう、悔しいのだ。
意地でも白雪姫が乗り移っているのかと思わせるような演技をしたい。
それでもし全然駄目だったら特技欄に「演技」とは二度と書かないだろう。

「舞衣さーん、台本確認終わった?」
サクラの声が、あたしの耳に届く。
「今行くわ」
ぱたんと、薄い台本を閉じて立ち上がった。

****

普通の一般人がいきなりクナイを向けられたらどんな反応をするだろう?
普通なら怯えて逃げ出すはずだ。
いや、もしかしたら逃げ出さないで震え続けるだけかもしれない。
気を失ってしまったりとか…。
でもさすがにそこまでは出来ない。これは劇だ。

白雪姫は狩人に助けを請いながら逃げていた。
いかにそれらしく、その動作をするか…それが肝心だ。

「はいっよーい…スタート!」
ぱしんっとサクラが手を叩く。それと同時に、シノとあたしは走り出した。
「こっち来ないで!じいや!!いやぁああ!!」
「そうは言われても困る。オレの役目は姫を、白雪姫を殺すこと。命令は絶対だ」
「お願い助けて!!…あっ」
思いっきり転ぶ。自然に、本当に躓いたように自然に。
痛い、でもこのくらいなら、平気だ。

そのままシノの足あたりに縋りつく。
手にある斧を取り上げようとすることも忘れない。
「助けて!あたし、まだ死にたくないの!お願い!もうお城には帰らないって誓うから!母様の前に姿を現さないって約束するから!だから、お願い!殺さないで!」
「…わかった。そこまで言うのならば、逃がしてやろう」
「ありがとうじいや!大好き!」
ぎゅっと、シノではなく、じいやに飛びつく。
そしてじいやに手を振り、森の奥に逃げる演技をして…。
「はい!終わり!」
サクラの声が響いた。

「凄いです舞衣!どんな練習をしているんですか!?」
リーが目をきらきらさせながらこちらに寄ってくる。彼は努力家だし、色々なことを取り入れたいのだろう。
「特に練習はしていないわ。ただ、キャラクターがこのセリフを言うとき、何を考えているのかを想像しながら読んでるの。素人にはそれくらいしか出来ないし、ね」
「なるほど…わかりました。僕も小人の気持ちになって演技をして見せます!!」
「うん」
「あ、あとほかには…」
「舞衣」

突然、リー以外の声が聞こえ、あたしは顔を上げる。
ネジだった。あたしとリーの間に壁を作るように、立っている。
その行為に、眉をひそめた。
「…ネジ、人が会話している間に立つのは、良くないと思うわ」
その言葉の後、ネジはハッと眼を見開く。
それから、下を向き、小さく「済まない」と呟いて、あたしたちの間を通り過ぎていく。
彼らしくない態度だった。

「どうしたんでしょう、ネジ…」
「さぁ…?」
何か特に用があるようにも、見えなかった。
「…何の嫌がらせかしら」
小さく呟く。
おかげで、話の腰が折れてしまった。

「話を戻しましょう?何だっけ?」
「あ、此れなんですが…」
リーとあたしは、再び台本に目を向ける。
いつしか、ネジのさっきの変な態度のことは、記憶を保存する器官からも消え失せていた。

****

この出来事を思い出したのは、風呂に入り終わった後だった。

「ねぇ、そういえばさっきどうしたの?」
「…何の話だ」

髪の水気をふき取りながら、彼が逆に聞き返す。
確かに、今の質問の仕方は、あたしも悪かった。
「昼間、リーとあたしが話してる間にいきなり割って入ってきたでしょう?もしかして、何か用があったりとかした?」
ぴたりと、ネジの手の動きが突然止まった。
「…ネジ?」
どうかしたの?…そうあたしが言うより先に、彼は立ち上がる。こちらに、すたすたと近づいてくる。
髪をまとめていないせいで、顔に垂れ下がった長い髪が、ネジの表情を見せてくれない。

突然、グッと、両手首が握り締められた。
目の前には、表情が良く見えないネジ。
まだ水気が含まれたその髪の先から、ぽたりと水滴が一つ。
胸元に落ちて伝っていく水滴が、ネジの色気を冗長させていく。
…今の状況が良い状況ではないと言うことは、流石のあたしでも感づくことが出来た。

「…ネジ、ちゃんと髪…拭かなきゃ、風邪引いちゃう」

…返事は、いくら待っても帰ってこない気配がした。
だから、言葉を続けていく。

「ほら、手…離して?…そうだ、拭いてあげるから。ね?」
それは、ちょっとした恐怖なのかもしれない。

「明日は今日よりも早く支度しなくちゃいけないし、もう寝ないと、明日疲れちゃう」
いや…むしろ、強迫観念というべきか。

「ねぇ、ネジ…お願い」
だって、今のネジの態度は、まさに。

「お願い・・・せめて、何か言ってよ・・・」

あのときの、従兄と、同じだったから――…。

「・・・ふぇ・・・ぇ・・・っ」
途端に、ぽたぽたと涙が溢れ出す。
もう、あたしには目の前にいる相手がネジだとは思えなかった。
実は、どこかで兄さんとネジはすり替わっているんだ。
…そうだ、これはネジじゃない。本当のネジは、別の場所に閉じ込められているんだ。

…身体中の力が抜けていく。
涙で、周りの景色が見えない。
でも、うっすらと、見える。…あの恐ろしい従兄の顔、が。

「――ごめんなさい…っ」
自然と、その言葉が浮かんできて、口ずさまれていく。

「ごめんなさい…」
ひどいことしないで。

「ごめんなさい…」
蹴らないで。

「ごめんなさい…っ」
殴りつけないで。

「…ごめんなさい、」
縛り付けないで。

「ごめんなさい、」
首を絞めないで。

「ごめんなさぁい…」
許して。

「ごめ…なさ…い…っ、」
許してください。

「ごめんなさい……」
もう止めて。「ごめんなさぁい・・・っ」
殺して


―――…誰かの、泣き声が聞こえる。
嗚咽の中に、言葉も聞こえる。

「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…っ…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさぁい…ごめ…なさ…い…っ、ごめんなさい……ごめんなさぁい・・・っ」

――…舞衣が、泣いている…?
その事実を、漸くオレは目で認識することが出来て、ハッとなった。
目の前には、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ぶつぶつと小さく「ごめんなさい…ごめんなさい…」と謝り続けている舞衣。
オレの手で握り締められ続けた白い手首。
そっと放すと、その両の腕は、だらりと重力に従って垂れ下がる。
まるで縄にでも絞め続けられたかのように、くっきりと赤い線を残して。

「・・・オレが、やったのか?」

返って来る筈の無い質問を、投げかける。
舞衣は、どさりと床に座り込み、そしてまた…泣いている。
いや、未だと言うほうが、この場合は正しいだろう。
…そう、誰でもない、オレのせいで、彼女は。

「すまない…」

…謝らなければいけないのはオレの方だ。
泣きじゃくる彼女の細い身体に、腕を回してそう囁く。

彼女は、ずっとずっと泣いていた。
泣き疲れて眠るまで、ずっと。

****

消えることは無いのです。

たとえ、身体の傷が癒えようとも。

心の傷だけは、心の中で永遠に残り続ける。

…その心の傷より何倍も大きい、愛情を与えられない限りは。

****

湧き上がる劣情
理由なんて無かった。
ただ、この胸が痛くて痛くて…そう、オレは柄にもなく、嫉妬をしていた。


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