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終わらない争い。

終わらない悲しみ。

今は穏やかなあたしの世界。

いつまた冷たい時代が来るか、わからない。

だからこそ。

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「舞衣、笑顔がなんだかいつもより綺麗ね」
テンテンからのお土産の苺を食べていたとき、ふいに彼女にそう言われた。
それがどういう意味かはわかっていたけれど、そのことについては敢えて詳しく言わなかった。言わなくてもテンテンとリーは、わかっているはずだから。
そして、そうやって思っていたということに、はじめて実感を持てて、それについて一人驚く。あたしは本当に強がっていただけで、実際は人を信じていたし、未来に一抹の希望をちゃんと抱いていたんだって。
あたしが一番、あたしをわかっているんだと思っていたけど…。

「どうやら、あたしより周りのほうが、あたしをわかっていたようね」
「?…なんか言いましたか?」
「いいえ。ただ…今日は良い天気だなぁって、言っただけよ」

ちらりと見ると、空は本当に綺麗に澄み渡っていた。

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コンコンッと響く音のあと、舞衣はその扉の向こうの人が何かを言う前に、扉を開けた。

「ネジ」
声を掛けたが、彼は返事をしない。面会ができるようになったが、彼の意識はまだ、戻っていなかったのだ。
だが、彼女は、そんなことにはお構いなしというように、ベッドの近くの椅子に座る。軋む音だけが、静かに響いた。

「ネジ」
もう一回、名前を呼んだが、やはり彼は返事をしない。
舞衣は少しだけ苦笑して、ガサガサと、近くにあるコンビニの名前が書かれた袋の中身を、探った。
「テンテンがね、ネジが起きたときに、お腹空いてるんじゃないかって、またゼリー買ってきてくれたのよ?昨日の分のゼリーと入れ替えておくから。ああ、捨てはしないわ。あたしが食べるの。でも早く起きてネジが食べてよね。運動できないんだから、あたしが太るわ」

病室は、やはり不気味なほどに静まり返っていた。
しかし舞衣はそれでも笑顔で、ネジの前で、もぐもぐとゼリーを食べ始める。
舞衣の眼は少しだけ潤んでいたが、彼女は泣くということは、未だしていない。
彼女はネジが、無事に目覚めることを信じていたからだ。

窓の外では、一羽のカラスが止まっている。
カラスはゆっくりと羽根を広げ、バササッと大きな音を立ててから、空に舞い上がった。

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一人の男は、木の上に身を潜めつつも座っていた。

胸に手をあてている彼は、忌々しげに建物を見ている。
いや、正確に言えば建物の中だった。
建物の窓から見えるそこでは、一人の少女が少しだけ目を潤ませながら、何かを食していた。

男はそれを忌々しげに見つめながら、印を組もうと手を胸から放したが…やめたらしい。
彼は再び胸に手をあてる。
そして、少女を睨みつけてから、その場を静かに立ち去るのだった。

「舞衣…」


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次の日になっても、ネジが目を覚ますことなかった。
今日は桃のゼリーをガイ先生が買ってきてくれた。
だから入れ替えのために、あたしは昨日テンテンが買ってきたぶどうゼリーを食べる。
寒天ダイエットというものがひと昔流行っていたが、ゼリーでは痩せないのだろうか?このままでは本当に太ってしまう。なんて…ネジが心配なはずなのに、気がつけばあたしは、いつも自分の体重を心配していたりして。
冷たい女だと、端から言われてしまいそうだが、それは違う。
あたしは、ネジがもう少ししたら目覚めることを信じている。だから気長に呑気に、そして気楽に待てるのだ。
そうでしょう?だって。

「あたしの運命を変えてくれるんでしょ?
他の誰でもない、ネジが」

ピクリと、彼の指が僅かに動いた気がした。

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───遠くて近い記憶の中で、誰かが泣いていた。

「…どうした?泣いてるのか?」

近づくと、「誰か」は顔をあげる。
綺麗な茶色の髪と眼と、白い肌に浮かぶ×印の痣。
自分にも刻まれたそれを見て、少し不快になった。

「…だれ?」
「…こっちが聞きたいのだが」
「あたしは舞衣…あなたは…?」
「ネジだ。何があった?」
「宗家の…兄さんに…恨まれて…呪印を…つけられた…の…」
「そうか…」

自分でも驚くほどそっけない返事。
苦笑しながら、彼女は再び俯いた。
「運命は…変えられないのよね…どうして分家に生まれたんだろう…」


───運命だから。
そんな言葉が、頭に駆け巡る。
しかし、それを素直に、言葉に出すことが出来ない。

言葉に出せない。

言葉に出せない。

…違う言葉なら、出てきそうだ。


「変わるさ」
「…え?」
「一緒に来い」
彼女を引っ張るように手を握って、走り出す。
「お前、もう一度言え、名は何だ?」

いつの間にか少女──舞衣は、涙を流しながら叫んだ。


「美瑛…っ美瑛 舞衣よ!」

「……ありがとう」


****

目を開けたら、頬には涙が伝っていた。

…不思議な夢だった。
夢とは思えない程の、鮮明な夢。

泣いていたあたしを、彼は放って帰っていかなかった。
それだけではなく、手も引いていってくれた。
あたしを、あたしを助けてくれた。抜け出させてくれた。
あれは…ただの夢?…ううん、違うわ。

そっと、横を見る。
ぼんやりと虚ろげに目を開けている彼の姿が、そこにはあった。
「…ネジ、」
「…不思議な夢を見た。
幼い頃、オレたちが出会ったときの内容が、書き換えられていた。オレは…お前の手を引いて、助けを求めて日向に向かっていた。
これは…幼い頃のお前が、救われたということなんだろうか」
…きっと、そうに違いない。
ううん、そうだと信じたい。だって、その夢は。

「あたしが見た夢と、同じ…あたしも今、その夢を見ていたの。
あたしは、夢の中で確かに救われたわ。きっと…夢だけで終わらない」
「ううん、終わらせないわ」

まだ終わっていないことも山積みで、もしかしたら「彼」の気分次第で、明日にはもう、あたしは死んでいるかもしれない。
それでも、過去ばかりを見つめていたあたしが、今、前を見ていることに、変わりはない。

「ネジ」
「…」
「ありがとう」

そっぽを向く彼の頬は、微かに赤かった。

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あたしとネジの退院は、それから一週間後のことだった。
本来なら、あたしとネジくらいの怪我なら、もっと時間が必要らしい。
…もともと、身体が丈夫だったからだろうか。

空羽に持ってきてもらった入院中の暇つぶし道具(主に本)や生活必需品が詰まった鞄を、左から右手に持ち替える。
…この一週間と数日、たくさんの人がお見舞いにきてくれた。サクラやいの、接点が少ない人たちまで。
でも、しっかり向き合わなきゃいけない人は…来なかった。

北風が冷たい中、厚い上着の袖を捲ると、あるのはたくさんの痣。…すべて、向き合わなきゃいけない人にやられたもの。
どうして優しかった彼が、いきなりこんなことをするようになったのか?…それは、あたしが一番知りたいこと。
なんであたしの命まで握って、さらにこんなに殴るのだろうか?蹴るのだろうか?あたしにはそれが分からない。
だからこそ、向き合わなければいけない。真実を知って、正しい道を見つける為に。

「…前までは、復讐しようって、思ってたのにな。
ネジの所為ね。いや、おかげかな?うん…ネジの馬鹿」
「世の中には『馬鹿と言う方が馬鹿だ』という言葉があるんだぞ」

外気に晒されて、冷たく冷えた腕が、ふわりと持ち上がる。
ああ、使用人と帰ると思ってたのに…荷物だけ持たせて先に帰したのね。

「…」
…ネジにだけは、見せたくなかった。
汚い部分は、人に見せたくない。そんな人間らしい気持ちが、身体を浸食していく。
今すぐこの痣だらけの手を退けたい。でも何故か、視界がぼやけてよく見えない。
ただ、握られた腕を、優しく撫でてくれるその手が、愛おしいものだということは、よくわかった。

「…つらい、な」
「…別に、身体は痛くない」

痛いのは、心。
心が、張り裂けそうなくらい痛いだけ。
いっそ心臓を剣で貫かれたほうが、何倍もマシなくらい、もどかしいようで苦しい痛み。
細部まで蝕んでいくそれは、何年経っても弱まることはない。
「助けて…」
自分でも驚くほど、本当に小さな声が、無意識に出た。

「…今も続いているのか?」
「任務とか…何も無いときは、ほぼ毎日」
ネジは、その言葉に相槌を打たなかった。
ただ、あれほど心配してくれていた癖に、あたしの腕をきりきりと握りしめて、肩を震わせていた。

「ネジ、泣いてるの?」

返事は、なかった。
でも、いま彼が、あたしのために胸を痛めているということは、よくわかった。

****

「ごめんね」

「…」

「…ありがとう」

彼がまた、見えた気がした。

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見えてきたモノ
世界は、二人ならば怖くなどないものだったのだ。

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