Short Dream



気づけば、人を信じることができなくなった私がいた。
誰かに信じてもらいたいという純粋な気持ちを、すべて失った私がいた。

【これが私の運命なんだ】

――そんな失望心を、抱くようになった私がいた。

****

いつもと変わらない日常。晴れやかな青空を憎む毎日。
でも、今日はいつもと違っていた。
偶然、幼なじみを見かけたのだ。

その人は、とても強い心と肉体を持っていて、何より頼りになる人だ。当然、周りの人望も厚い。
しかも容姿端麗ときた、当然私とは釣り合わない。

だから――声なんて、かける必要は何処にも無いと思った。
私が声をかけても、彼が迷惑に思うだけだ。
彼にはもっとふさわしい人がいる。彼と同じ班員のかわいらしくて快活な女の子、彼の従兄のおしとやかな女の子、男子ならば熱血なライバルたち――彼のいる世界に、私のような薄暗い女はいらない。
要らない、のだ。

『久しぶり。元気だった?上忍に昇格したんだよね、おめでとう』
だから、私はいまにも飛び出そうなその言葉をぐっと飲み込んで、彼に気づかれないようにその場に背を向ける。
それなのに、彼は私の小さな努力と気遣いを裏切るように、私に気がついて、言葉を投げつけるんだ。
歩、と。

声を掛けられたからには振り向くしかない。
観念して振り向いた先には、いつもと変わらない優しい笑みがあった。
「歩」
彼が、もう一度私の名前を呼ぶ。どうして名前を呼ぶの?そんな、まるで私の存在を確かめるかのように。
嬉しい。嬉しい。愛おしい。でも、でも。
『ネジ』
そう、呼んではいけない気がした。昔と変わらないままに、気安く彼の名前はもう呼べない。だって、だって私みたいな女が、彼に近づく権利はないから。
だから、私はまた言葉を飲み込んで、呼んだ。

「日向さん」

自分でもぞっとするほど、それは冷たい声をしていた。

****

彼のことを幼いころから好いていた。

泣き虫だった私の手を、少しだけ大きな手で包み込んでくれたあなたが、ずっとずっと好きだった。
『歩は、僕のお嫁さんになるんだからね。約束だからね』
幼いながらに交わした約束。きっとこんな言葉、もう彼は忘れているだろう。

あんなことが、あったから。
まだ幼かったネジを置いて逝ってしまった彼の父。
『父上が死んだのは、あの宗家の者たちのせいだ』
そう言いながら、私を置き去りにして変わっていったネジ。

そして、私も、あの甘い約束を置き去りにして変わっていった。

代々色任務を中心に活躍する忍びの一族。
幼い子供を相手にすることを性癖とする男は少なくない。
ネジが変わっていったのとほぼ同時期に、私はそんな汚れた世界に身を投じる羽目となってしまった。
それが一族の運命だと、ネジが悟った時、私も同じようにそれを悟った。

ネジが私の前に再び現れたのは、13歳の時。ちょうど中忍試験本戦、三代目火影が突如襲ってきた大蛇丸と砂隠れの集団により亡くなった時のことだ。
やってくるなり、私の汚らわしい体を抱きしめて、彼は確かこういっていた気がする。すまなかった、と。
でも私の耳にはそんな言葉は入らなかった。
汚れきった身体。任務とはいえ、忍びのさだめだから仕方ないとはいえ、彼に触れさせるべきではない。そんな考えだけが、私の脳裏を占めていた。
だから早く離れてほしい、そんな思いで、あの時の私はひたすら彼の謝罪に頷いていた。それが、彼が私に頻繁に話しかけてくる発端となるとも知らずに。

それが嫌だということはない。むしろ嬉しくて、愛おしくてたまらない。でも駄目なんだ。そう、好きだからこそ。
好きだからこそ、ネジにはもっと幸せになってもらいたい。
私みたいな汚くて、人の裏とか、顔色とか、そんなものばかりをうかがう女より、もっときれいな人と。
そしていつしか私も、この思いも忘れてしまえばいい。

…それなのに、あなたはひどいよね。
私の気持ちも知らないで、あなたはそうやって暖かく笑うんだ。
そういう態度を取るのも、もう止めて欲しいのに。
あなたは、どうしてそんなに、私にまっすぐな目を向けるのか。

「久しぶりだな」
「…そうですね…日向さんは確か上忍になりましたよね?おめでとうございます」

嘘吐き。本当はもっと早くからそんなことは知っているのに。
あなたが夜遅くまで修業をして、自分を鍛えて頑張っていたことも、私は何もかも知っているのに。さも知らないという口ぶりで、冷たい口調で――ああ、私ったら、本当になんて。

「・・・ごめんなさい。もう帰らなくてはいけないので…これで」

ついに私は彼に背を向けてしまった。
嘘をついている私を責める「私」に耐えられなかったから。
まっすぐな目でわたしを見つめる「彼」に耐えられなかったから。

嗚呼、遠くから彼の声が聞こえる。
私の名前だ。誰よりも愛おしい人が、誰よりも汚らわしい私の名前を呼んでいる。
振り向きたいのに。応えたいのに。避けたくなんてないのに。出来ない。出来ないの。

(怖い、怖い、近づくことが怖い。傍にいることが怖い、素直になることが怖い、傷つくことが怖い、幸せになることが怖い…)

ぐるぐると、様々な恐怖が私の胸を反芻する。
早く彼から逃げたいという思いか、それともすべてを振り払いたかったのか、気づけば私は地面を強く蹴って走っていた。
腕は遅いくる恐怖を振り払うように、足は絡め取ろうとする闇から逃れるように。
「――――っは、」
叫びだしそうな喉、でもうまい言葉が出てこなくて、くっとのどが詰まる。
『嫌だ』だとか、『怖い』だとか、『助けて』だとか…そんな陳腐な言葉じゃない。答えはすぐそばにあるのに、出てこない。
乾いた頬が、かすかに濡れたような気がした。


****

数日後、珍しく私は通常の任務に就いた。暗殺でも、色任務でも、戦闘がある任務でもない。心を閉ざした少女の心を開かせるという任務だ。
心を開かせる、簡単なようで難しい任務。おそらく普段任務で人の心に介入しているから、ということで私が選ばれたのだろう。

いつも通りの態度で、依頼人の家で軽い自己紹介を終える。
つややかな白髪にぱっちりとした瞳、見た目だけは明るそうな人なのに…なんでこんな人がと、私は首を傾げた。

依頼人はどうやら、自分が生きている意味が解らないらしい。何故生きているのかわからないという依頼人の滔々とした独白を聞いているうちに、私はいつしか依頼人と自分を重ねてみてしまっていた。
似ている。自分の存在意義が見つからないという事実、価値を見いだせない事実、ああ、この子は私だ。そう確信したとき、私は、一番言ってはいけないことを言ってしまっていた。

「…もう、死ぬしかないよ」

…嗚呼、なんてことを言ってしまったんだ。
私は心の中でまた自分を責めた。できることなら、今この場で頭を思いっきりちゃぶ台の角に打ち付けてやりたいくらいだ。
任務に私情を持ち込んではいけないと、あれほど自分を戒めていたというのに。
ちらりと、依頼人の顔を見る。以外にも、少女は興味深そうな表情でわたしを見ていた。

「忍者さんも、自分の存在価値がわからないなんてこと、あるんですか?」
「…全員がそうとは限らないですが…私も、あなたと同じようには」
「――聞かせて、下さいますか?」

溜め込んできた、この絶望が、ついに溢れ出した。
まるで目の前にもう一人の私がいるような、そんな感覚が、私の心のダムをこじ開けたのだ。
小さいころから一族のおきてで、色任務に駆り出されるようになったこと。それが原因で自分が嫌いになってしまったこと。好きな人に名前を呼ばれる資格もないんじゃないか、触れられる資格もないんじゃないかという思いが素直になることを阻む苦しみ。たとえ幸せを掴んだとしても、いつかどん底に叩きつけられるのではないかという恐怖…。
話しているうちに押さえきれなくなった私は、ついに依頼人の前で泣き出してしまった。


このままずっとこうして苦しんでいくのかという絶望と、目の前に分かり切った答えはあるのに見ないふりをしている自己嫌悪。
それらすべてが一気に押し出していく。その圧力に、耐えることが出来ない。

そのとき、ふわりと何かが私の肩を包み込んだ。そのまま私の背中に腕を回すそれは、目の前にいた女性からは想像できないほど逞しくて。
「…?」
目の前にいた女の子の服が、さっきと違う。それにこの懐かしい香り…まさか、まさか。
「やっと、お前の口から聞けた」
聞き覚えのある低い声、ほかのどんな声よりも愛おしく感じる声が私の脳髄にまで響き渡った。

「…大事なことほど、忘れていきますよね」
唐突に頭の中で浮かんだ言葉を、私はそっくりそのまま呟くと、彼も「そうかもしれないな」と返した。
「目を閉じたらどんな未来も叶えられるのに、目を開けたら真っ暗なんです。無くしたくないのに、守ってるはずなのに、気がついたら…落としてるんです…っ」

この足は小さすぎて、前にすら進むことができない。
この声は小さすぎて、生きた証さえ残すことができない。
終わらない永遠の絶望に、何度涙しただろう?

「…歩。昔、オレがお前に『将来の嫁になれ』と言ったことを覚えているか?」

今度は唐突に彼が問いかける番だった。
忘れるわけがない。あの言葉を聞いた夜は嬉しくて、布団の中でずっと悶えよろこび続けていたことまでしっかり覚えているんだから。
こくこくと何度か頷くと、彼が安心したように息を吐く。それから、私の顎をくっと上に持ち上げる。ここではじめて、私は彼の目を見た。
まっすぐな目。いつもと変わらない、全てを見透かすような、そして彼自身も偽りを一切見せない目。そう、私はこれも好きだった。

「お前は、ただの冗談だと思ったかもしれないが、オレはあの約束を覆すつもりはない」
「歩、お前がこの運命を変えたいというなら、オレがお前を支えよう。
幸せを失うことが怖いというなら、オレがお前の不幸を退けよう。…それに、」

彼のまるで真珠のようにつややかな瞳の奥に、かすかに目を見開いた私が映った。
嘘。だって、私は、あなたが思うような女じゃないって、さっきも。
…彼は、そんな私の驚愕などは知らんとでもいうように、私の目元をなぞった。白くて細長い指先がくすぐったい。
あまりにもくすぐったいから、抗議の意味を込めてもう一度彼を見つめ返す。暖かな瞳、穏やかな瞳が、いつくしむように私を見ていた。

「お前は汚れてなどない。こんなに綺麗な眼をした奴の、一体何が汚れているというんだ」
「―――!」

それは、本当に不思議な心地だった。
これが彼以外の誰かから言われた言葉だったなら、私はこの言葉を跳ね返していただろう。
でも、彼の言葉は、彼の言葉だけは、容易に心の中に溶け込んでいった。

「あ…」

叫びたい。叫びたい。
これまた唐突に、そんな欲求がわいてきた。
今なら見える、今なら掴める。
あの時私が叫びたかった、本当の言葉。
「ネジ!!」
禁忌として戒めていたその体に、私はひしっとしがみつくように腕を回して、今度は悲しみ以外の涙を流す。

私が本当に叫びたかった言葉、それはほかでもないあなたの名前だったのだ。

天使たちのメロディー
私はここから歩みだす。



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