Short Dream



 
 腹の底が煮えくり返りそうな光景だった。
 赤い格子の向こう、橙色の光は色めかしく女の髪を照らしていた。今まで見せたこともない大人びた笑みで、眩しいほどの韓紅の唇が弧を描き、自分ではない男に笑んでいる。繊細な細い手が。黒真珠のような瞳が。かしましいと感じていた高い声が。まるで知らない女のようだった。
 年相応の大人の女性になったらしい彼女は美しかった。そんなことは、自分にはまるで関係のない話だと思いたかった。だが実際に会ってみればどうだろう?  
 こんなのはまるで殺意だ。そう、思った。


 * * * *


 「ネージ!」
 
 鳥の声。風の音。靡く草の感覚。すべてが研ぎ澄まされて聞こえていた瞑想が、やかましい女の声に全てひっくり返される。目を開けずとも聞き分けられる声にオレは「歩か」と口だけを動かした。えへへ、と笑う女の声が頭上から響く。人の邪魔をした自覚がないらしい、忍らしくない無邪気な声色がころころと降ってくる。

 「…何の用だ」
 「えー、今日もかっこいいね?って思って」
 「帰れ」
 「冗談だよジョーダン。たまたま見かけたから、声かけただけ」

 そうは言いつつも隣にすとん、と座り込んでくる。相変わらず図々しいヤツだ。大方オレがここに居ると嗅ぎ付けて此処に来たんだろうが、言い訳もまともに出来ないらしい。此処の演習場は林や障害物が多く、白眼の修行にも向いていたから使っていたがそろそろ使うのを控えたほうが良いかもしれない。
 ぱらぱら、と巻物らしきものを広げ始めた音が聴こえる。どうやらここに居座る気らしい。仕方なく目を開けて立ち上がると、「見ていていい?」と声がした。ここでオレが修行を続けると思っているらしい。少し茶味がかった光彩が、じっとこっちを見ていた。

 「…好きにしろ」

 やった、と小さく女が笑ったのを見なかったことにして茂みの奥の的に手裏剣を向ける。見ていていいか聞いてきたわりには巻物とこっちに視線が行ったり来たりで、そのふらついた視線がやはりどうも煩わしかった。



 榛原歩はアカデミーの同期だ。
 くのいちクラスでトップだった歩とは、教師陣の興味本位なのか実技授業で頻繁に手本として呼び出されることが多かった。勿論互いがいくら秀でているとはいえ、男女の差は歴然。勝負の結果はいつも決まって同じだった。やる意味などはなかっただろうに、おおかた一般家庭の出の歩に何かしらの嫉みを持った奴らの提案だったのだろう。
 だが当の歩本人は強気だった。どうせ負けて恥をかかされるところだろうに、向かってくるその目はまるでどっかの誰かを思い起こすほどに真剣だった。どうせ負けるだろうに、とオレが思っているところが余計に気に食わないらしい。

 『ねぇネジ、何食べたらそんなに強くなれるの!?』

 いつしかソイツは執拗に話しかけてくるようになった。人の帰りに付き纏い、歩く速度を速めても同じ歩幅で着いてくる。仕方がなく木から木へと飛び移るように急げばいつしか横並びになって向かってくる。

 『この前図書室で医学書読んでたよね!もしかしてツボとか見切る感じでやってるの?』
 『西通りの蕎麦屋さんに通ったら同じくらい強くなれる…?』
 『あそこの忍具めっちゃ精度よくない?買ってみたらもうそれだけで強くなった気がするんだけど!』
 『ねぇこの前のテストの問い六の…』
 『あのさ、私ネジのことが好きみたい』
 
 興味本位と負けず嫌いの何かから付き纏ってきたはずのソイツは、いつしか勝ち負けの話ではなく単純な世間話を求めはじめた。誰に話しても変わらないだろう下らない話の返事をしつこくオレに求めてくる女と出会って早三年。そしてある日同じ世間話をするノリで、ソイツはオレに好意を寄せるような言葉を使い始めた。
 だからと言ってオレとその女の関係は変わらない。アカデミーを卒業した後も惰性のように似たような形で続いている。
 


 「そういえば私、実は幻術の特訓してるんだけど、とうとうコツが掴めたっぽくてさ」
 
 誰も聞いてもいないし求めてもいないのに歩は巻物に視線を落としながら一人で話し始めた。遠くを飛ぶ鳩の数を追いかける視線が思わず逸れていたことに気が付き、チャクラを目の奥に集中させる。興味はない。どうでもいい。自分にとって大切なことは、もっと別の場所にある。

 「今までネジに張り合って体術キャラになろうと思ってたから盲点だったよね。ていうかネジのいる班自体がわりと体術系じゃない?あれを目指そうと思ってたけど分野が違うならそりゃあって感じなのかなって」

 いや、大切なことなどはない。ただ決められた通りにやるべきことをするまでだ。オレは日向一族のために生き、宗家のために死ぬ。父上と同じように、この籠の中でなすべきことをなして死ぬ。

 「もうすぐ――…でも中忍試験はせめて――…」

 これは信念ではない。運命だ。その逃れられない定めの為に生きる以上に、為すべきことなどない。
 
 「でもネジがちょっと心配」

 不意に、女と目が合った。里でよく見かける凡庸な黒目の奥は微かに琥珀を帯びている。へにゃりと眉を下げて、いつしか女はオレの正面に陣取っていた。
 何が心配なのか、どんな話の下りだったかはなにも覚えていないし聞いてもいなかった。歩もオレが聞いていなかったことを分かっていただろう。それ以上、女が何をどう心配とは口にはしなかった。
 ただ、それ以上言われずとも何を心配されているのかは分からなくもなかった。だから、余計に苛ついたのかもしれない。

 「…お前に気にかけられる義理はない。退け」
 「…またね」

 強く睨みつけると女は困ったように笑って手を振った。相変わらず掴みどころのないその態度のせいで、なんとなしに投げたクナイが的を外れ地面に刺さる。誰も居なくなった演習場に自分の悪態をつく声だけが響いた。ただ、明日も明後日も変わらずヤツはまた何事もなかったかのようにやって来るんだろう。それだけは、頭のどこかで予感していた。


 女が親に遊郭に売られたと聞かされたのはその二月後、中忍試験が始まったさなかのことになる。
 「またね」と何度となく繰り返されてきたはずの他愛ない再会の宣言は、呆気なくそこで途切れるのだった。


 * * * * 

 
 親に売られた。そう理解するまでに思った以上に時間はかからなかった。もうずいぶん昔のことで思い出したくもないけれど、それなりにひどい家で育ったから、そうされるのも分からなくもなかったからだと思う。
 もともとは忍者の卵で、一年ちょっとは下忍をしていたこともあってそういう偏見があったんだろう。水揚げまでの時間はそこらの禿よりは早かった。ファーストキスはどんな場所でする?アカデミーの男の子だったら誰としたい?そんな夢の話はあっという間に崩れ去って、男の子と手さえ繋いだこともなかったのに私は誰よりも早く階段を一足飛びで越えたと思う。でも、ここに来てからの日にちを数えられなくなるころにはそんな感傷も消え去った。

 此処も忍者の世界と同じく実力社会だ。客に、女将にいかに気に入られるかがものを言う。色という芸を売り、夢を捨てて夢を売ることに価値がある。
 親がどれだけの借金をしていたかは分からない。親の借金分を返したところで、この遊郭の外を出たあとの私は今更忍者にも戻れもしない。子供のころに手のひらの中で指折り数えていた小さな夢は、この格子の中にいるうちに全部が過去のものになってしまった。

 (…まるで、籠の中の鳥みたい) 

 ずっと昔、ほのかに好きだった男の子のことをどうしてか思い出してしまった。この廓の女性よりもきれいな黒髪で、そのくせ誰よりも強くて、それでもどこか、塞ぎこんだような目をした人だった。まるでこの先の人生に意味なんてないって、今の私みたいなことを子供のころからずっと抱えているようだった。

 彼は今、どうしているのだろうか。



 「お前に身請けの話が来ているよ」

 血の吐くような気持ちで花を売った。白いご飯に毎日ありつけるくらいには地位は安定し、格子の中に押し込められるのではなくいつしか部屋持(へやもち)にまで上り詰めた。ただそれは自由を手に入れたわけでも何でもない、鳥籠が広くなっただけ。
 身請け。その言葉を聞いたところで私の心は冬の湖のように静かだった。「左様ですか」と淡々と言葉をあるがままに受け止める。相手は火の国の六番目の大名息子。この見世一番の乗客だ。店の楼主(ろうしゅ)は「お前は幸運な娘だ」と私に微笑む。親に捨てられた私を禿の頃から可愛がってくれた親父様は、私の門出を祝ってくれた。

 「お前は自由だ」

 自由なんてない。外へ行ったところで一生ここではない何処かでまた飼い殺されるだけだ。好きでもない誰かの妾になり、本当に欲しい愛も幸も得られずに私は女としての生も人としての生も失う。本当に欲しいものを、いよいよその手を伸ばすまで待つことさえももう私には許されない。
 それでも私は死に絶えるまでは「花」だ。ここに放り込まれた時から、自由も夢もとうに諦めている。花は花なりに、散り際まで美しくあれ。忍び耐えるように私は本心を隠して「ええ」と楼主に微笑んだ。今夜はまた上客の息子がやってくる。最後の花魁道中になるだろう。逃げられないのなら、逃げないなりの矜持を見せるまで。今までずっとしてきたことの繰り返しだ。この先もそれは、ずっと一緒。


 だと思っていたのに君は。誰よりも凛とした花など目もくれず空を飛ぶ鳥のようなその白い影は、遠い昔よりも真っすぐとした視線で私を射貫き、あっという間に私の鳥籠を破った。


 * * * *


 「忍び様は登楼の作法もご存じないんですか」

 噎せかえる様な金木犀にも似た甘い香りがする。顔にも手足にも白い粉を叩いた女はいつか幼いころに見た笑みの一つ浮かべず、黒い項をこちらに向けて悪戯に手元にある鞠を転がしていた。

 「おかげさまで身請け話もご破算。慰めにでもいらっしゃったのでしょうか」

 火の国の六番目の大名息子が違法薬物に手を染め、気に入りの女性を一般人問わず攫っている。このままでは国の面汚しになるため、息子は蒸発したことににしたい。そのアリバイを作れ。――大名直々に命じられた任務内容は通常の班員とではなく、暗部との合同任務となった。大方此方には仔細は伝えられなかったが、「蒸発」を直々に行うために暗部が加わったに違いない。上忍にもなるとキナ臭い任務も請け負わざるを得ない。
 大名息子は近々短冊街の仲見世から花魁を身請けするという自慢をしていた。身請けの前日に登楼し、明けには廓を出る。垂れ流された情報から、こちらの動きを決めるのは容易だった。戦闘任務よりは気を張るが、よくある任務の一つと思えばさして心は動かなかった。…花魁とやらが歩と知るまでは。情事が始まる最中ターゲットが例の薬物を彼女に打とうとするまでは。

 「普通のお客様なら仕置きもの。誰もあなた方を咎めないのは、あなた方が木の葉の忍びだから。それで、ただの遊女の私に何の御用でしょうか。あの人のことならただの客。何も知ることなんて御座いません」
 「…何故避けようとしなかった」
 「…何を?」
 「お前ならあの程度の男のあからさまな動きくらい、どうすることだってできただろう」

 黙って注射針を首筋に受け入れようとしていた静かな黒い眼を思い出す。結果的にやることは同じとはいえ、あのタイミングでターゲットを捕らえる予定はなかった。面越しに暗部の男が「キミ、意外と熱い男なんだね」とどこかで聞いたような軽薄な声で大名息子を連れ去っていったことを思い出す。確かにらしくない。ここに居る必要も、花魁の安否も、任務の中には含まれていない。――それが、一体なんだと言うのだろうか。
 目の前の遊女がは、と笑う。相変わらずこちらに顔を向けないヤツだ。まるで、これじゃああの時とはまるで立場が逆転している。

 「私は、貴方様と違ってただの花売り。くノ一ならさておいて女が男に勝てる訳がないでしょう」
 「死にたかったんだろう」
 「…は?」
 「生きている理由が分からない。何を頼りに日々を過ごせばいいのかが分からない。だから、死んだってよかったんだろう?」
 「…誰のお話ですか?」
 「オレの話だ」
 「……」
 「あの時はずっと、明日も明日の先のことも意味がなかった。強さも才も、持っていることに価値を感じられなかった。誰かと下らない雑談をする楽しみさえ無駄だった。先の運命が見えている気になっていたから」
 
 過去の生き写しのような姿の女が鞠を取り落とす。遠くに転がっていく鞠を追いかけようとした白い手を掴む。指の先まで冷たく、体温を感じられないほどだというのに、女は何かから自分を守るように視線を避けるように身体を逸らした。

 「死んだの」
 「……」
 「もう、死んだ。貴方を好きだった人は、もうこの世にいない。ここに売り飛ばされたときに殺したわ」
 「歩」
 「もう帰って。任務だったんでしょう?偉い地位になったんですね。こんな一介の遊女と遊んでいる場合で?興味なんてないでしょう?」
 「お前が居なくなった最初はお前のことだってどうでもいいと思っていた」

 説得にしては使えない言葉が柄にもなく飛び出した時、遊女が黒い眼を見開いて視線を合わせた。赤い化粧、病的にさえ見える白い肌に照らされる行燈の光。どれもこれもその女には似合わない。それでも、目だけは正直だ。無関係の他人に、人は涙なんて流さない。

 「どうでもいいことにしたかった。認めることでどれだけ自分が余計に傷つくことになるかなんて分かりたくもないからだ。それでも日が経って、季節が一周した頃には、お前が居ないことが苦痛だと思い知った」
 「……」
 「後悔したよ。相槌さえマトモに返さなかったことも、下らない誘いに乗らなかったことも。お前がどんな顔で笑っていたかもこの目があるのにロクに見なかったことも。なんの関係も築かなかったことも」

 遊女の白い化粧が涙の線に沿って溶けた。忍服の袖で強引に拭いとると、化粧の赤が白い服の袖に移る。知ったことじゃない。簪やら着物やらで飾られた美しい女の姿なんて求めてもいない。何本も頭を飾る簪も櫛も残らず引き抜くと、どこかで見たことのある黒髪がはらりと肩に落ちていった。少女の面影を残したアカデミーの同期が、顔を赤くしてぐすぐすと決壊したように泣きじゃくる。なにもないの。唇がかすかにそう動いた。

 「わたし、もうみんなみたいに強くなんてない。全部取られちゃった。普通の女の子みたいな、ことも、もう出来ない。なにも、ないの。君に誇れるものも、ないの」
 「……」
 「わたし、そもそもが最低なの。ネジが一番だから話しかけてたんじゃ、ない。ネジが、同じ独りぼっちだったから。ひとりのくせに、ひとりが平気そうなのが、ゆるせなくて、うらやましくて、でも、きみのなにかに、多分ずっとなりたかった」
 「…ああ」
 「ネジとわたしだけの、何かがずっとほしかったの。でも、結局大事なことはなんにも言えずに死んじゃった」
 「なら、これから作ればいい」

 黒い瞳とはっきりと目が合う。あの頃出来なかった、やらなかったことを取り戻すように、かち合った視線の先で歩も目の奥にオレを見ていた。多分、ただそれだけでよかった。これまでの空白を埋めるには、おそらくはそれだけで十分すぎた。
 
 「…帰ろう」

 『仲間』が自分で涙を指先で拭いながら静かにこくりと頷いた。



 * * * *


 子どもの頃には忍者の夢を。思春期の時期には花売りを。そればかりの日々だったせいで「普通に生きる」のは今もちょっと難しい。
 最近やっと包丁の握り方が分かってきた。買い物の仕方、給金の低い普通の仕事。私は本当の花屋で花を売る。花の名前はまだ、遊郭の作法より多すぎてすべてを覚えるにはあと二回は季節を巡る必要があるだろう。そうぼやいたら、「まだまだだね」とどこかで聞いたことのあるような軽い口調の店番仲間が私を笑うのだ。それに皮肉も色もなく言い返すのは最近やっと自然になった。


 「ねぇ、さっき家の前の子がネジさんへって渡してきたんだけど」
 
 夕方。任務から帰宅してきた彼を出迎える。未だに上達しきっていないだろう料理に何の文句も言わずに手を付けてくれる男は優しい。そして世間話程度に、私は居候させてくれている男の前に桃色の封筒を差し出した。ちら、と視線を向けたあとに男は何も言わずに食事を続ける。また受け取ってしまったのか。そんな空気が言外に滲み出ているようだった。多分今回も読まないのだろう。私はしょうがなく封筒を自分の手元に引き戻す。中身を見るつもりはない。でも、捨てるのも忍びないから部屋に仕舞っておくつもりだ。だって、女の子の恋する気持ちを彼のようにそう無碍には出来ない。

 「お前も律儀なヤツだな」
 「だって」
 「断ればいいだろう。普通はそうする」
 「…断る理由がないんだし。だって、私ただの居候で、使用人みたいなものなんだからさ」
 「…それでいいのか」
 「え?」
 「オレはいい加減悋気の一つでも起こしてもらいたいと思うがな」

 ご馳走様、と行儀よく手を合わせたあと彼がそそくさと食卓を出ていく。悋気。まあよくやる話だった。常客を逃さないようにそういうまねごとをした覚えがある。あれはまあ、簡単に言うとやきもちとかそういうやつだ。でもここはもう遊郭ではない。焼きもち。嫉妬。それを起こしてもらいたい。居候しているただのなんでもない私に。それって。
 突然の小さな爆弾にそれ以上私は考えられなくなる。確かに何かになりたいとは言った。これからそうなりたいと思っていた。そんなことをぐるぐると考えて、やがて一言だけ声が出た。口に出した瞬間、熱を出して倒れそうになったけれど。


 「――…もしかして好かれてる?」

 

 これは恋だと今決めた。
 いくらなんでもただの「何か」にここまでしない。




「ネジがめっちゃすきな子をうざいなと思っていたら突然来なくなってなんやこいつって数年単位でモヤモヤする話ください」と言われたのでなんとなく書きたかった遊郭ネタと合わせて闇鍋しました。日向ネジの地の文がどうなっているのか未だに書いてて解釈違いを定期的に起こすためどうしたらいいかわかりません。




back

- ナノ -