幸せなことはなんですかと聞かれたとき、大体オレは「家に帰ると誰かがいること」と答える。家に帰ると暗い部屋。父親はとうに死んだし母親もいない。迎えてくれる「おかえり」の言葉の響かない家。仕方ないなと現実を受け入れていた反面、それが寂しくて仕方なかった。
だからその分、今のオレは家に帰ることを楽しみに思っている。借りているアパートの前に近づくたびに見えてくるカーテン越しの光。階段を上ると感じる彼女の気配。チャイムを鳴らしてすぐに開く扉。その向こう側、光の先で彼女は、今まで見たことのないデザインのワンピースを着て立っていた。
「ネジ、お帰りなさい。今日も一日お疲れさま」
「……」
…いつもと変わらない、当たり前のように存在する風景。今日がどういう日なのかを、もちろん彼女は忘れずにいてくれた。それが堪らなく嬉しくて、玄関の扉を閉めるのも忘れて彼女を腕の中に引き寄せる。わっと小さく声をあげた彼女が、どうしたんですかとくすくす笑う。なんでもない、ただ俺はやっぱり今幸せで、もうどうしようもないくらい気持ちを押さえられなかった。
「歩、歩ただいま」
はい、と愛しい彼女が「お帰りなさい」と返してくれる。出会って数年、付き合い始めて2年、こんなふうに誕生日を幸せに迎えられる日が来るなんて、信じていなかった。誰かがオレを家で待っていてくれて、オレを迎えてくれる誕生日なんて。ああ、オレはなんて幸せなんだろうか。
じーんと感傷に浸っていると水を指すように生ぬるい風が差し込む。そこでオレはまだドアを閉めていないことを思い出して、済まないと歩にひとこと謝ってからパタンと扉を閉めた。我ながらにらしくないことをしてしまっていたようだ。
そんなオレを肯定してくれるように歩が照れ臭そうに「嬉しかったからいいんだよ」とはにかむ。…嗚呼、今日のオレは大丈夫だろうか。付き合い始めて半年、いい加減張り詰めっぱなしの理性が切れそうだ。酒は控えといたほうがいいのかもしれない。
(いや、しかしこんな日なのだからそろそろ、)
悶々と煩悩を膨らませているオレの心情など何一つ知らない彼女がくすくすと笑いながら、「夕食の準備もうできてるから。すぐ並べちゃうから待っててね」と短い廊下を先に歩く。
「今日はBランク任務だったんだよね、お疲れ様」
「ああ、お前こそ今日はテンテンの忍具屋で働く日だったな、お疲れ。開業して一か月か、調子はどうだった?」
「だんだん口コミで広まってきてるみたい。先週よりもお客さんが来たんだよー」
テーブルに食器を並べたり箸を並べる手伝いをしながら互いを労う。座っててもいいよ、と言われ待っていると、ふわりと漂う鰹の匂いと白い湯気。
「にしんそば、好きだよね?その…作ったのは初めてだからあまり自信ないんだけど」
「歩が作ったのか」
「うん、…えっと、お気に召さなかった?」
「まさか」
よかった、と歩が緩く笑う。にしんは時期に合わないため手に入れるのが難しかったはずだ。蕎麦屋でも扱わない店が多いため、手本にできる物を見つけるのにも苦労したはずだ。さぞ大変だっただろう…と思いながら手を合わせる。向かい側に座った歩も同じように手を重ねた。小さく「いただきます」と一言。
はじめて作ったという割に蕎麦は美味い。噛みしめるように啜りつつゆっくり今日あったことをお互い話しながら食べる。ゼンマイなどの山菜が入っていた小鉢の中身や蕎麦が減ってきたころ、冷蔵庫から甘さ控えめの小さいケーキが出る。それも食べ終わってしまった頃、歩が「そうだ」と小さくつぶやいた。
「…実はね、誕生日プレゼントも用意してたの」
すっとテーブルの下の引き出しにひっそりと隠していたらしい。大したものじゃないんだけど、と前置きしつつ歩が取りだしたのは布のようなものが入っているように見えるラッピングされた袋だった。
「誕生日、おめでとう」
「中見は本当大したことじゃなくて手ぬぐいなんだ。この前お選択してた時に気づいたんだけど破けてたよね。ところどころ煤けてたし、ずっと気になってて」と差し出がましいことをした、といったような顔で歩が笑う。その姿があまりにもいじらしくて、今すぐにでも抱きしめてしまいたくなる。ただ、それをしてしまうと一千を越えてしまいそうで。…嗚呼、だめだまだこんな魔の悪い時に盛りのついた雄のような態度なんて取るわけにはいかない。
「…済まない、少し水被りついでにシャワー浴びてくる」
「え?あ、うん。わかった。じゃあ私後片付けしてるね。そのあと私も入るから」
「ああ、ありがとう。悪いな」
「いいよ、ごゆっくり」
「ああ…」
立ち上がってリビングを出た数秒後、「え?水!?」という動揺の声が後ろから響いた。
* * * *
どうしよう、私、いますごくドキドキしてる。あのタイミングでいきなりお風呂なんて言われちゃって、変にドキドキしちゃった。なに考えちゃってるんだろう、どうしよう。今日の私、駄目かもしれない。
遠くから響くシャワーの音を聞きながら、ああもう今日が終わっちゃうんだとぼんやりそれを寂しく思う。もう8時。あとは私もお風呂に入って、歯を磨いて…黙々と寝る準備をしてしまったらもう今日は終わり。なんだかすごく勿体ない。もっと長く続けばいいのに。
洗い物を終えてなんとなくいつも二人で寝ているベッドに寄り掛かる。楽しさの後の切なさを抱えながら、手持ち無沙汰な時間を持て余すように目を閉じる。そのまましばらくぼうっと夢とうつつを行き来しているうちに、水の音は止まっていて、目の前に人の気配が来ていた。
「…無防備すぎだろう、これは」
いつもより少し低い声がぽつりと降ってくる。怒ってる?…どうだろう、頭がうまく回らない。ちょっと疲れちゃったのかな。瞼が重たくて開けられない。
大きな手が私の頬を撫でる感触が伝わってくる。あったかくて気持ちいい。ネジの優しい手は心地いい。ふっとそのまま唇に何かが触れた。ネジの薄くて私より少し硬い唇。全然違うけれど、それが好き。彼のすべてが、好き。
「オレも男だといつも言っているだろうが」と呟く声に重たい目蓋を開く。そんなことを言われてしまうともう、私だって本当はもう限界で。はしたないって分かっているけれど、私だって、好きだからこそ求めたくなってしまうわけで…。
「…我慢、しなくていいよ」
ぽつり、つぶやいた言葉にネジの呼吸が止まったような気がした。しばらくして、「どういうことかわかっているのか」と低い声。頷くと今度は「止められないぞ」と忠告。また頷くと、今度は唇が強引に合わさった。いつもの軽く唇が合わさるキスとはなんだか違う。ネジの舌が、私の唇を割って入ってくる。くちゅ、くちゅと厭らしい音を響かせながら、ネジの舌が私の口の中を泳ぐ。舌をなぞられた瞬間、身体の奥がきゅんと疼いた。耐えられなくなってネジの方にしがみついて、何とかそれを受け止めようとする。唇が離れた時、銀色の糸がつうっと垂れて、それが唾液だと気が付いた時、どうしようもなく頬が紅潮した。だけど、もうお互い止まりそうになくて。
ぎし、とネジがベッドに座って私の手を引く。身体はそのままネジの膝の間に移った。「もう無理だからな」と耳を甘噛みしながらネジが囁いて、また体の奥が疼く。私ももう戻れそうになくて、このまま夏の熱気に流されたことにして、溺れてしまおうとこくりと頷いた。
Happy Birth Day!
* * * *
一次のリサイクル小説で申し訳ないです。元キャラが彼女溺愛系男子だから少しキャラ崩壊してる気がする。
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