時計の針が進む音が、今日はやけに五月蝿い。食事もすんで、私はじっと居間のソファーに座っていた。夕方までネジさんと並んで座っていた白い三人掛けのソファーだ。今は一人いないせいで、とても広々と感じる。多分横たわって眠ることもできるくらいに。ネジさんは二人用のダイニングテーブルの椅子に腰かけて新聞を読んでいる。
 落ち着かない。さっきまであんなに満たされていたのに、今度はもどかしさでむずむずとしていて、それでいてさらに悶々とする。もしここにいるのが私一人だったらきっと今ごろ壁に頭を打ち付けているかもしれない。せめて、という感じで意味もなく首を横に振る。時計の針が八時を挿すのが視界の端に入った。お風呂の時間。それに気づいてまたどきりとする。なんとなくネジさんの方を見ると、ネジさんも時間に気づいていたからなのか偶然なのか、定かじゃないけど眼があった。
 
 「……」
 
 無言が重なる。気まずいどころの騒ぎじゃない。でも眼があったからにはなんか喋ったほうがいいのかもしれない。そう思って、とりあえず「お風呂、先にいただきます」と吐いた。いつもより声が大きくて、それでいてロボットみたいにぎこちない。はじめて言葉を発したような、そんなしゃべり方になってしまった。ネジさんの「ああ」という返事がいつも通りなのがちょっと悔しい。膝に力を入れて立ち上がる。居間を出るときの私は、なぜか足音が気になったからもうちょっと静かに歩けないかな、と踏みしめる感覚を意識していた。

 * * *

 なんとなく私は今日、このあとの夜はまたあの人と身体を合わせることになると少し予感していた。それは別にあの人からそうしたいと言われたからではなかったし、ましてや私からそうしたいと前みたいにすがったわけでもなかった。なんとなくの直感だ。きっと今日はどちらからともなくそういうことをはじめだすんだと思う。夕食を作る最中あたりからそんな空気をどちらからともなく出し始めたように。
 お風呂に入って身体を暖めながら、身体を捩って無駄な毛はないかとか日焼けのあとが残ってるどうしようとか、そんなことを考えながら剃刀片手に奮戦する。もう二回はすでに見せている身体だっていうのに、結婚した初日よりも私は緊張していた。
 これでもし普通に「おやすみなさい」の一言で話が終わって朝を迎えたら、それはそれで面白いかもしれない。自分の滑稽さにきっと私は笑うだろう。そんな夜でも面白いかもしれない。だって、別に今日しかないわけじゃない。でも多分、きっと私は次の日もこんな風にお風呂の時間を長く過ごすことになるんだろう。湯船に浸かりながら一人でくすくすと笑う。それから、このあと何されるか…を少し想像して、頭がくらりとした。いけない、と思ってゆっくり立ち上がると視界が一瞬だけ霞んでもとに戻る。ふう、と安心して息を吐いた。逆上せて倒れる展開だけはさすがにちょっといただけない。
 下着は一番気に入っているものを選んだ。髪の毛はいつもはドライヤーで乾かすだけだったのに今日は気分のいい時くらいしか付けない香油をつけた。徹底した行動に自分でも馬鹿みたいだと思う。一人でちょっと笑って、居間に戻ると今度はネジさんが出ていった。大体いつもと同じ流れだ。私はいつもお風呂から上がったときと同じようにダイニングテーブルの方に座って一息つく。いつもと違うことをたくさんしてるし考えているのに、まるっきり違う行動を取らないのがなんだか不思議だ。
 
 しばらくしてネジさんがお風呂から戻ってくると、私はいつものようにお茶を淹れる。朝は緑茶で夜はほうじ茶というのが最近から出来はじめた流れだ。
 渋い茶色の湯飲みと、私の桜色の湯呑みにそれぞれ均等な濃さでお茶を注いでお盆にのせてテーブルに運ぶ。ネジさんはそれを「ありがとう」と受けとるとすぐに一口飲むけど、私は熱いから置いたまま。これは結婚当初から変わらない。
 二十分くらい今日は商店街で会ったいのちゃんがとか、任務がまた草むしりだったからあいつらがとかそんなとりとめの無い会話を終えると、お互いの湯呑みが空になる。そうしたら私が立ち上がって話を続けながら湯呑みを洗いにいって、ネジさんも話に区切りがついたら洗面所に向かう。本当に変わらない日常だ。私の心臓の鼓動が少し速い以外は。

 湯呑みを洗い終えて私も洗面所に向かって歯を磨いて、そうしたらあとは寝室へ。昼に綺麗にしておいた布団は二組横に並んでいる。薄暗い部屋のなかで、ネジさんは大体いつもそうしているように布団の上に座って私を待ってくれていた。部屋にいつもより慎重に足を踏み入れた私は、そっとネジさんに向かい合って座る。手が延びたのはどちらからだったかはわからない。ただ、衣擦れの音も心臓の音もすべてがいやにうるさくて、それでいて触れた体温の熱さが心地よかった。
 愛の言葉は一つもなかった。ただ、私は既に自分がこの人を好きでいるということを自覚していたし、この人が私を愛してくれているということも知っていた。そういう自覚があって私は彼に手を延ばしていたし、彼もそういう思いを込めて触れてくれているということは感じることが出来た。

 ただそれでも段々と足りなくなってきて、身体の熱だけじゃもう気持ちを伝えるのも受けとるのも間に合わなくなった。「はじめてのときよりはじめてみたい」なんて吐くと「夫婦として本当の最初は今なんだろう」なんて言葉をかえされる。確かに、と同意した時にはまた唇を塞がれて。
 いつもは汗なんて掻かないだろうに。前はもっと落ち着いた眼だったはずなのに。いつもはそんな言葉絶対に口になんかしないのに。いつもは私の名前、あまり呼んでくる人じゃないのに。じっとりと額に首筋に汗を滲ませて息を乱して、眼前にいる人が私の名前をひたすらに呼び続けている。こんな風になるんだ、なんて思いながら実は私も同じ状態っていうのがまた不思議だ。獣みたい、でもそれが不思議と不快じゃない。狂うことさえ今は怖くないなんて、そんなこと生きていて感じる瞬間なんてあったかななんて思ったり。おかしくなったように何度も何度も名前を呼び合って、はじめて覚えた言葉を使う子供みたいに同じ言葉を繰り返して。そうして最果てに着くころには縋るように両手を伸ばして。

 「それで、終わりかと思ったら終わりじゃなくて」
 「…突然どうした」
 「ううん、こっちの話」

 いぶかしげに眉を潜める彼に独り言だと返して、また汗ばんだ胸に顔を埋める。数日前まではあまり想像もできなかった自分の状態に苦笑いしつつ、今日だけで湧き出たいくつもの感情を数える。不思議なことに数え切れたと思った頃にはまた飛び出してくるのだ。もうすることは終わったはずなのに。こういう行為の後が本当に一番大事なんだよ、みたいな話を聞いたことがあったようななかったような。よく覚えていないけど、確かに、と思う。終わったようで終わりじゃない。さっきより落ち着いて感じていられる体温は、心地よく私を気だるくさせていく。

 「…ふふっ」
 「…また唐突に」

 こういうのってもしかして「幸せ」って名前がつくものなんじゃないかな、なんて、自分で思いついた言葉があまりにもくさ過ぎて自分で笑ってしまう。こんなのは恥ずかしくて到底人には言えないと思った。だけど「なんだというんだ」と尋ねられてしまって、ついつい口に出してしまったのだ。「幸せ」というたった一言だけぽつりと。あきれられるような気はした。この人そういう人だと思ったから。「いきなり何を言い出すんだ」とか、そんなことを言われるんじゃないかって一秒の無言の間に予想してみたけど。

 「…そうだな。オレもだよ」

 予想外にも肯定されちゃって。私もそれに意外、なんて思いはすれど驚けなくて素直に「うん」と頷いてしまう。また「幸せ」という言葉が頭に浮かんだ。



 はじめて愛に触れた日
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