その日も特にかわりない朝を迎えた。なにか日常と違いがあるかというと、夫は今日は何一つ予定を入れていなかったということくらいだろう。でも私の生活に特に変化というものはなくて、朝起きたら普通に朝食をつくって、片付けをして、部屋で瞑想をしているネジさんの邪魔をしないように粘着テープで床の埃やごみを取ったり、窓を拭いたり浴槽を磨いた。
 お昼になったらネジさんを呼んで、昼だからまあさっぱりとしたものをと思って蕎麦を食べて、また後片付けをして最後にテーブル回りを整理する。買い物をする必要がなさそうだ、ということを冷蔵庫をみて確認して、二日おきにつけている家計簿も確認。干されていた洗濯物を取り込み終えたら、いつのまにか午後一時と二時の間を時計の針は指していた。此処まで来ると今日やることは夕方四時頃までなくなってしまう。
 おもむろに居間のソファーで巻物を開いていたネジさんの方に寄ると、気配に気がついたらしいネジさんが右側のスペースを空けてくれる。そっと腰を掛けると微かにぎし、という音がソファーの底から響いた。なんとなく肩を寄せて巻物の中身を覗いてみる。これで話がわかればよかったけれど、残念なことに私にはアカデミー時代に培った程度の教養しかなくて話が全く読み込めなかった。多分、暗号なのだろう。
 読むことを諦めて私は天井を眺めることにした。このまま眠ってもいいかもしれない、と不意に思って眼を閉じる。すると、そっと頭に掌が乗った。あ、ネジさんのだと判断したときにはさっきよりも身体がネジさんの方に寄りかかる。寝てもいい、ということなのだろう。でもネジさんは私の体重を預けてしまって大丈夫なんだろうか。色んなことが心配になって(特に私の体重とか)ネジさんに「重いですよ」と忠告すると「大したことじゃない」と返された。じゃあいいかもしれないと思って私は今度こそ脱力する。
 遠くで響く時計の秒針の音、近くで響く紙が擦れる音、微かに聴こえる私以外の心音に、ちょっと不規則な呼吸の音。色んな音が眼を閉じると聞こえてくる。でも五月蝿いとは感じなかった。



 夢の中、桜の花弁の舞う世界にいた。桃色の花びらが空一面をおおい尽くしていて、でも太陽はちゃんと昇っているから地面に不可思議な植物の陰を作るのだ。どこかで鳥が囀ずり合う声が響いていて、私はその春の中で泣いていた。
 悲しい夢ではなかった。私はその春をずっとずっと待っていたから、やっと冷たい雪が溶けたことに幸せを感じていた。ちょっとしたらこの春も終わってまたいつか冷たい日が訪れるのかもしれないけれど、それでも今はそんな冬を怖いとは感じなかった。だって、長いこと訪れなかった春の時間を私はちゃんと乗り越えられたのだから。

 「カナデ」

 朧気な世界の中で誰かに名前を呼ばれた途端、春は現実の世界に溶け込んで消えた。夕焼け色に染まった壁の色、変わらずに響く時計の秒針、遠くで聴こえる子供の声、それから私を見ている真珠みたいな二つの眼。ああ、なんだかとてもぼんやりとしている。

 「そろそろ起きた方がいい。あまり寝ると眠れなく、」
 「ねぇ」

 自分にしてはやたらと生意気な口調が飛び出てきた。でもよくよく考えたら同い年だったし、身分とかそういうことさえ抜きにしたらまあまだ許されるのかもしれない。わからないけど、そういうことにした。頭がうまく働かない。私はまだ夢の中にいるのかもしれない。分からないけど。
 どうだろう、もしかしてちゃんと現実を見ていたのだろうか。だからこんな言葉が出たりしたんだろうか。だって今までだって寝ぼけることはあった。でもこんなにはっきりした頭で考え事なんてしたことがなかったし、こんなに理性的に回りを見れたためしもなかった。
 だから……なんというか、そう、分かってて私は本能に従ったんじゃないかなって。


 「好き」


 そんな風に不意に思えたから、口にしようと思ったんじゃないかな、って。
 一瞬だけ時計の針の音が聞こえなくなった気がした。今までなんとなく気づいていて、それでも言葉にしがたかった感情の名前は、ネジさんの動きを完全に止めてしまう。…こんな眼を見開いた顔、近くで見るのははじめてだ。私はなぜか冷静で、ああ、と一人で納得する。そっか、この言葉であってたんだ…って、回答に落ち着く。確かめるように、込み上げてきた感情を率直に私はまた口にした。――好きです、あなたが好き。二度目の私の言葉でやっとネジさんが動く。「そうか」、と返答は意外と素っ気なかった。と思いきやいきなり立ち上がられて、私は支えを失いソファーに完全に横たわることになる。ぽすっと倒れこんで頬にソファーの革を貼りつけるとネジさんの体温を感じた。ネジさんはなぜか私にそっぽを向け、珍しくも一人でしゃべっている。

 「いや、違う。そうか、で済む話じゃなかった…夢か…夢でも見ているのか…リーに頼んで頬でも打って貰いに行くべきか…」
 「……」

 なんというか、どれだけ私はこの人を待たせてしまったんだろうかと今さらになって後悔が沸き上がった。本当に申し訳ないことしたな…とか、いやでも夢扱いはちょっと、なんて思う感情を抱えつつ私も立ち上がってネジさんの前に立つ。するとは独り言を吐いていたネジさんの動きはまた止まり、ゆっくりこちらを見てくる。橙色の光の中、白い瞳とまた眼があった。この端正な顔と向かい合うのはやっぱり未だに慣れないと思いつつ、私は深呼吸をひとつしてから、そっと両手をネジさんの右の手のひらに伸ばした。両手があってもネジさんの手のひらを完全に包めないのがちょっともどかしい。現実に戻ってきてもらうために、私はまた深く呼吸をした。

 「正直なところ、まだ好きとか愛してるとかそういうのよくわからないんです」

 気づけば指先はひどく震えていた。怖いとかじゃなくて、さすがに少し私は緊張していて、ちゃんと答えを伝えるのには力が要った。

 「好きだとなんだか色々足りない気がして、でも愛してると言うと烏滸がましいなって、色々考えてたらわからなくなってたんです。嫌いじゃない、ならなんて言えばいいだろうって」
 「でも今ふっと、一つ思うことが浮かんで、口にしてみたら、すんなり嵌まったというか、腑に落ちたといいますか、それでやっと答えが少し見えたんです。まだはっきりしてないかもしれないけれど、私、あなたのことが好きです。あなたが大切なんだと思います」

 あ、「大切」って一番しっくりしたかもしれない。口にしてそう気づいたときにはもう私はネジさんの腕の中にすっぽりと収まっていた。これでもか、というほどに強く抱き締められて息が少しだけ詰まる。「やっと」という言葉が聞こえたような気がした。そう、やっとなんだ。多分、やっと私たちは本当にはじまるんだ。
 耳元で響いたのは愛の言葉。それをもう疑うようなことはしなかった。深く頷いて、待たせたお詫びを兼ねてとはじめてこみあげた不意の衝動を抱えて私はまた「ねぇ」と言葉を投げ掛ける。キスしてみたい、そんな言葉だったと思う。「オレはしてみたいというよりしたいだった」という苦笑い混じりの声が頭上から響いて私もつられて苦笑いをした。顔を合わせるのはそれから五秒の間があった後のこと。
 



訪れた春

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