最近、人を「好き」になるとはどういうことなのかをよく考えるようになった。自分の感情について敏感になったからかもしれないし、ネジさんとの関係性が少しずつ柔らかいものに変容していったからかもしれない。
 夜、天井を見つめながら横にいる人の寝息に耳を傾ける。静かに眠る人。ぽそりと私はそんなことを呟く。隣にいる人の呼吸音にそうして耳を澄ませながら、私はその音の主についてと自分の気持ちについて考えてみることにした。

 さて、人を好きになるとはどういうことだろうか。ずっと昔の初恋のことを思いだす。あのときはどんな感情で私は彼に恋していただろう。あのときは彼のひそやかなやさしさにただ惹かれていた。ただ好意だけをぼんやりと抱いていて、その先の未来なんて何一つ考えていなかったような気がする。ただ遠くから見ているだけで良かった。ふとした瞬間に目が合うだけで幸せだった。
 今の私はどうだろう。今の私は彼のことが好きなのかなんてまたよく分からない。だって、小さいころの私とあまりにも彼に向ける感情の中身が違いすぎる。好きだっただけで満たされていた過去と、そばにいたいと思う今。「好き」だったということが明確だった過去と、いろんなことが分かっているのにはっきりと「好き」とは言えない今…。

 「……」

 考えがごちゃごちゃになってきて、もやもやも心を満たしていく。やりきれない気持ちを隠すように私は布団を目元まで引き上げた。隣の呼吸が、少しの間衣擦れの音に隠れた。
 なんて答えを出したらいいんだろう。単純に「好き」とは言い切れない。でも確実に「嫌い」とはもう言えない。ただ、そばにいたいと思う。何かいい方向に進展があればいいと思う。ちゃんと「妻」になりたいと思う。…そこまで思っているなら「好き」で別にいいんじゃないだろうか、とここで私はため息を小さく吐いた。昔の誤解はもう解けている。もう「嫌い」の原因はなくなったし、今はちゃんとネジさんの言葉を信じている。それならもう、本当に「好き」と決着をつけたらいい。どうして私はそれをしないんだろう。
 ううん、なんで、「できない」んだろう。
 いつかいのちゃんとサクラちゃんと三人で話したことを思いだす。確かあれはほんの雑談から飛び出した言葉だった。団子をほおばりながら何気なく耳にしたのは、「本当に恋をしている時は『好き』なんて言葉を使うことは出来ない」なんて言葉。

 「……」

 少し、隠していた目元を外にさらけ出す。見えたのは何一つ変わらない暗い天井。私はまた身体を左側に傾けて、薄闇の中何度も瞬きを繰り返す。そうしているとだんだん、少しずつ見えなかったものが見えてくる。きっちりと閉じられたカーテンとか、壁際に寄せられた文机とか、少し離れたところで瞼を閉じているだろうその人の影、とか。
 うっすらと現れた陰を見つめる。手を伸ばそうかと一瞬ためらった。多分、小さいころの私だったらこんな風に手を伸ばそうかと思うことすらしなかっただろう。表情なんてうまく見えないのに、私は何となくその暗い影をじっと見つめつづける。
 この感情はきっと、「好き」のそれに似通っているのだと思う。きっと限りなく「好き」に近くて、でも「好き」で表すには難しいんだと思う。上手に表すにはもう少し何かが足りない。ここに「大」を付ければ済む話でもないし、「愛している」という言葉を使うには烏滸がましいのだと思う。一言で済ませられるものじゃない。きっとそうできてる。けれど、もしこの人に「恋している」という事実を伝えるとしたら、やっぱり私は安直に「好き」と言うのだろう。そうしたら、あなたはどんな風に応えるのだろう。

 「……」

 寝返りを打つふりをして、私はまた天井を向くだけの体勢に戻った。夜はまだ終わりそうにない。明日もやることがあるんだから、きっと私も隣にいる人みたいに寝息を立てたほうがいいのだろう。全身の力を抜いて、呼吸を意識しながら眠っている人間のふりをする。そうしていくうちにいつの間にかきっと私は眠れていると信じて。寝息に再び耳を傾けながら、私はだんだんと思考のスピードを落としていく。暗いトンネルに入っていくように。海の底に静かに沈んでいくように。そうして私は眠りに落ちた。



 翌日、なんとなく聞こえていたものが聞こえなくなっていたことに気が付いて目を開けた。はじめて同じタイミングで起床をしたのかもしれない。もぞもぞと布団を動かしながら、私たちは起き上がってぼんやりとお互いを見つめ合った。ちょっと髪の毛が絡まってしまっている彼の姿を見たのは、結婚して以来初めてだったかもしれない。なぜか私はそれがおかしくて笑うと、彼は「朝から何だ」としかめた顔になった。起床したばかりなのかとても不機嫌な声、でも怒ってはいないとなんとなくわかった。

 「何も」

 そうやって私はまだくすくすと意味もなく笑いに尾を引かせながら意味もない癖に意味ありげな返事をした。それから、「おはようございます」なんて会話を流して。でもそのあとにやっぱり気になったのか、「何がおかしかったんだ」と尋ねられてしまったから、その話は朝食を作りながら新聞を読んでいる彼に背を向けながら答えてあげようと思った。
 

 私は大人になったんでしょう
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