あれから一週間、日々は本当に何事もなく過ぎていった。それこそネジさんのあの話があった時より前と何ら変わらない状態だ。
 泣きじゃくってそのまま寝こけて、目が覚めたあの日の夜なんか、まるで私一人だけ夢を見ていたんじゃないかってくらいネジさんは普通で、ぎこちなくなっている私の方がおかしいようになってしまった。だから次の日からは私も「普通」を演じている。
 段々私も、あの話はなかったのではないか、全部私の勘違いで夢だったのではないかなんて思うようになって。…だけど、やっぱり腑に落ちない。

 本当に、これで終わりにしていいのかな、なんて。

 それに気づいたら後の行動は早かった。意外と私には躊躇いというものがないらしい。そのせいで後で悔やんでしまうような事態も引き起こしてしまうこともあるけれど、短所とは言い難い私の特徴だと思う。
 今日の夕飯はネジさんが好きだというにしんそば。結構前に作ったときはなんとも言えない味がして首を捻ることもあったけれど、最近はうまくできるようになったと思う。にしんも最初はそれ自体があまり好きじゃなかったのだけど、段々と悪くないなと思えてきた。私は自分ではあまりそう思っていなかったけれど案外単純な人間なのかもしれない。
 黙々とそれを食べて、片付けをしてお茶を出す。お茶を飲んで少しゆっくりして、お風呂に入ってしまえばあとはもう寝る時間だ。休息時間に一息つきながら、私はぼんやりとネジさんを眺める。淹れたばかりのお茶に口をつけるネジさんは、いつも通りのポーカーフェイスでテーブルの木目を見ていた。…いいな、猫舌じゃないっていうのは。なんてぼんやりとそのネジさんの平然とお茶を飲む姿に憧れる。こんな風にぼんやりしている場合じゃないっていうのに、私は何も言えないでただじっとネジさんを見ていた。そうしていると当然、いつか視線に気づかれてネジさんは顔を上げるわけで。

 「…どうかしたか?」
 「あ、いえ別に」

 いやいやいや別にじゃないでしょ、と自分自身に私はツッコミを入れた。誰だ、「意外と私には躊躇いというものがないらしい」と自分を評価したのは。昼間の私と夜の私の何が違うというのか。ううん、そういう問題じゃない。やっぱりなんだかんだ言って、いざ向き合おうとすると緊張するのだ。躊躇いは確かに本来の私なら無いのだと思う。だけど、自分の言葉でこの人に話をするのはまだ得意じゃないようだった。
 不自然にも淹れたてのお茶を放置して、私は「お風呂の準備してきます」と立ち上がった。その不自然さには多分ネジさんも気づいていたと思う。「あ、ああ」と少しびっくりしたように眼を瞬かせて頷いた。そんなネジさんにあいまいに笑って、足早と居間を出たらそっとため息。なんでこうもうまくいかないのか。自分のふがいなさと意気地のなさにちょっと呆れさえもする。でも家事をしないといけないのは本当だし、と心の中で言い訳をして、私はお風呂場のほうに向かって歩きはじめようとして、また立ち止まった。私はあまり躊躇わないけれど言葉で伝えることは得意じゃない。だけどどうしても伝えなきゃいけない場面を作れば、なんて。思い至った途端、私の足はお風呂場よりも先に自分の部屋に向かっていた。



 …とはいえいざ寝るときになるとやっぱり躊躇いって言うものがちゃんと私の心の中にやってくるのだ。それこそ大きな波のように。何をしたかっていうのはとっても簡単。大したことじゃない。ネジさんの部屋に私の布団も敷いた。それだけだ。別に一つもおかしい話じゃないし、多分夫婦なら当然あっておかしくないスタイルだ。
 だけど何も一言も言わずいきなり「今日から私もここで寝ますー」というのもさすがにどうかしているんじゃないだろうか。そんなことをふと思った途端、「どうしたらあの寝室の件を寝るより前に言えるか」が結局課題となってやってきてしまった。どんどん話がややこしくなってきているような気がして、私はそっと額を抑える。そろそろ自分が何をしたいのかが分からなくなってきた。落ち着いてちょっと自分が何をしたかったのかを整理しようと、下を向きながら意味もなくテーブルを指でなぞる。何か文字をちらちらと書きながら、私は確か、確かと話を整理していく。確か私は、あれから一度も一週間前にしたようなことをしていないしそれ以前に達成もできていないけれど、その状態でいいのかを尋ねたかったはずだ。そう。だってじゃないと離縁させられることになるかもしれないって、日向に圧力掛けられてるそうだし。その圧力掛けられている状態で放置って大丈夫なのかと思って。…私の気持ちはあの時伝えたはずだし、別れたくないっていう意思をネジさんは知っているはずだ。それを知っていてなおこの状態が一週間。もしかしていい加減愛想を尽かされたんじゃないかとか、やっぱり相当な心配をかけていて躊躇わせてるんじゃないかとか、色々思うし答えを知りたいとも思う。思っていた――…のだけど、なんだろう、一週間間を開けて突然一緒の寝室希望ってまるで私が…。

 「体調が悪いのならもう寝たほうがいいと思うのだが…」
 「……」

 誘っているように、見えなくもないじゃないかと結論したところで目の前にネジさんの顔が迫っていたことに気づいて硬直する。「カナデ?」とネジさんが首を傾げながら私の額に手を当てた。熱が無いかを確認しているらしい。「ないですよ」と答えると「そのようだ」と真顔でネジさんは頷いた。はい、と頷き返す私の顔も多分真顔だっただろう。
 その真顔のまま、淡々とした言葉のノリで唐突に私は「さっき私の布団を勝手ながらネジさんの部屋に敷かせていただきました」と事後報告をする。さすがにネジさんは真顔ではいられなかったらしい、でもどういう顔をしたらいいのかわからないのか、ひきつったような慌てたような、そんな何とも言えない表情になった。なぜか珍しく私は真顔のままだったと思う。「日向の期待には応えたいとは思っていますから」と遠回しなことを言いながらネジさんから視線を逸らした。すぐにネジさんが「カナデ」と私の名前を呼ぶ。こちらを向けという意味だったのだろう。そっとまた視線を合わせると、今度はネジさんは真顔だった。

 「…日向のことはもう気にしなくていい」
 「…え」
 「何を言われようとオレはお前を手放す気はない。だから、もう無理はしなくていい」
 「…で、でもそれじゃあ当分子どもは」
 「お前が望んでいないのに授かるわけにはいかないだろう。…思いだしたんだ。何のためにオレがお前をあの日選んだのか。跡継ぎじゃない、オレはお前と、カナデと居たかったからお前を選んだんだ」

 嫌われてはいるが、と小さくネジさんが言葉を付け足す。私は何か言いたいことが出てきたような気がしたけれど、それでもうまく言葉がまとまらなくて喉を詰まらせていた。何とも言えない気持ち。ああ、これ、多分「泣きそう」ってところ。

 「…嫌われてはいるが、それでも大事にしたかった。だから、もう泣かせるようなことはしたりしない。だからもう無理は…っ!?」
 
 ぼろぼろと泣きだした私を見てネジさんがぎょっとした顔をする。「違うんです、違う」と私はとっさに弁解するけれど、どうやらネジさんは何か私の心をえぐるようなことを言ったと思っているらしい、「すまない」とまた謝りだした。違う、ということを強調するように「そうじゃなくて」と言葉を必死につなげる。ああ、もう嗚咽でぐちゃぐちゃだ。でもなんとか言葉には出来た。――そうじゃなくて、嬉しいのだ、ということ。そして無理はしないからでも少しずつ自分のテンポで頑張って応えていきたいということ。一つ一つを、ネジさんはあの日の夜みたいに拾ってくれた。そして話が終わるとネジさんは、最後に「すまない」じゃなくて今度は「ありがとう」と微笑んでくれた。私もきっとつられて、おんなじ顔をしていただろう。だって単純だから。でもそれが悪くないし嫌いじゃない。
 そうして私の長かった葛藤の日々はいったん幕を閉じた。



 その夜は同じ天井を二人で眺めた

  
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