その日の夜も次の日の夜もカナデとはろくに話ができなかった。やはり急な事実に困惑しているらしい。相当に悩ませてしまっているようだ。やはりタイミングを見誤ってしまったのだろうか、しかしこれ以上先延ばしにしてしまってもいい問題ではない。
 夫婦のことなんだから好きにさせろと言えるだけの口があればよかったのだが、それが言えなかったのはオレ自身に先に進みたいと思っている気持ちがあったからかもしれない。長く続いた一方的な片想いは判断力を見事に鈍らせた。結果的に試すつもりはなかったのだが、結果的にはそういう形になってしまったというわけで。
 ため息を吐きながら、草むしろをする部下を遠くから眺める。しかしどうも気が落ち着かない。自分はもう少し大人だと思っていた。もう大人である、らしくいられていると思っていただけなのだろうか。確かに「待つ」と言ったときは賢明な選択ができていたように思う。しかし結局その約束は崩れてしまった。これでは賢明だったはずの選択も無意味、と言うより逆効果だ。誠実のままでありたかったのなら、オレは日向からの脅迫を頑なに跳ねのけるべきだったのだ。それが出来なかったのは多少の欲で急いてしまった自分の弱さが原因だ。
 くそ、と悪態をつくのを堪え、河岸で草に手を伸ばした。少しでも気を紛らわせたい一心でぶちぶちと草をちぎり始める。こんな作業をしたのは実に5年ぶりほどになるだろうか。昔はこんな退屈な任務にも「自分ルール」とやらを設けて競争や修行のネタにして暑苦しく燃え上がっていたリーとガイ先生を横目にテンテンとため息を吐いていたものだ。今はそれを遠目に眺める方になるとは、人生何があるかわからないものだ。

 (…待てよ、そういえばあいつらは)

 自分が監督をしていないことを思いだし顔を上げる。ばさっと頭に何かが降り落ちたのはその瞬間だった。なんだこれはと顔をしかめながら頭に乗ったそれを掴み上げる。…シロツメクサの花かんむり。目の前で部下が三人そろってにやにやと笑っている。頭を抱え込みたくなった。

 「先生、駄目っすよオレらの行動はちゃんと見てないと」
 「お前たち…」
 「先生ったらあたしがのんきに冠つくってたりダイチとミツキが寝転んでても気づかないんだもん、びっくりしちゃった」
 「いい加減どうしたのかと思って…」
 「わかった!!先生嫁さんと喧嘩したんだ!!」

 好き放題任務を放棄して遊んでいた三人を見逃していた自分の不始末と、三人の的を得た発言に頭が痛くなってくる。にやにやと笑いながら「先生新婚なのにな」「ほら先生結構堅物だから奥さん不満に思ってるとか」とあらゆる妄想を人の目の前で語り合っている。そしてそれを否定しなかったことも問題だったらしい。三人はオレの悩みをカナデのことだと確定して追求してくるのだ。

 「好きじゃないの?なんで?」
 「儂そういうの知ってる。政略結婚だ。実はそうなんだ」
 「また難しいこと言いだしたよこいつ。なんだよそのこんにゃく結婚って。わけわかんねーよ」
 「どうしてこんにゃくになるのよ。やっぱりミツキは馬鹿ね」
 「ユーウェンだってそう言いつつわかってないだろ絶対!で?せんせー政略って…」
 「煩いぞ。任務に戻れ」

 だんだん本当に現実的な問題を部下が的確に当ててきたため、これ以上はと手で払う。すると部下たちは「心配してんのよ!」と生意気にもそんなことを言ってくるのだ。しかしこいつらに語る義務は別にない。いいから、いいからと手で払い続ける。止めに過去の自分たちと同じようによりスリルのあって忍者らしい任務がしたいと思っている三人に一言。

 「この程度の任務も時間内に終わらせられないならCランク任務はまだ先だな」

 そう言った瞬間三人は任務を真面目にしていた時と同様一斉に散り散りになって草をむしり始める。これでそれ以上の追求はなくなる。そう思っていた矢先、一人が「でもさ先生」と小さく呟いた。

 「オレ達先生は堅物だし冷たくあしらってくるし周りの先生と違って一つも面白いこと言ってこないけどさ、先生のこと好きだからさ。先生には幸せになって欲しいって思ってんだよな。ユーウェンもダイチも。全員」
 「……」
 「先生さ、本当に幸せ?」

 * * * *

 帰宅するといつもと変わらない顔のカナデがいた。昨日のことなんてなかった、といった顔で「おかえりなさい」と彼女は笑った。湯汲みの際も夕食の際も、何一つ変化はなかったように思う。ただ、就寝前の行動だけが違った。
 普段ならば「おやすみなさい」と挨拶をして自室に下がるカナデが、「今日は」とオレの袖を指でつまんだ。その手も、身体も声も震えており、明らかに怯えていた。その姿があまりにも哀れに思えて、「やめたほうがいい」と言いかけた。こんなカナデに無体を強いるようなことはしたくなかった。しかしカナデは下を向き続けながら「だって」と叫んだ。オレが何を言おうとしたのか分かっていたのかもしれない。下を向いているのは泣いているからなのだろうと、白眼を使わずとも分かった。

 「…いま、好きなのかどうなのかなんて、わかんない。うまくやろうとしてるだけで、本当に何を考えてるかなんて全然、わかってない」

 「でも、あなたと離れた後で「好きだった」なんて気が付いて後悔するくらいなら、私は…わた、しは…っ」

 嗚咽交じりに言葉を紡いだカナデの震える肩を抱いて、静かに「済まない」とだけ声に出した。それ以上に言える言葉がなかった。オレに出来ることはカナデの決意を無駄にしないことだけなのだろうと分かっていた。また傷つけてしまった罪悪感を抱え込みながら、そうしてオレはカナデを寝室に導く。

 二度目の夜のカナデの頬が乾くことはなかった。



 後悔だけはしたくないから
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