舌先に乗ることを許されない二文字は軽薄な自意識に崩壊していく。ゆるく鼓膜から浸水する暁の温度が内側の秩序を乱して、太陽に傾倒する愚かな絶望をわらっている。このままの速度で七十億分の一の誰かに見知らぬ愛を吐いたとしても、何が真実で何が現実かも分からないような不出来な目では、始まりを知ることはないのだろう。 油蝉の薄い羽根がゆっくり散っていくように、この熟れた心臓も一枚ずつ剥がれていって、やがて夏の終わりを迎えるのだ。
青い吐息を夜明けに消して。
「よう」
待ち合わせをしたことはない。連絡先は知らなかった。というか、知ってはならない。なにをも信用できないから。
午前3時、廃ビルの8階。よく見渡せて鍵の掛からないところ、というのが最低条件だった。
「久しぶりだな?」
この男をひと目見て、まず込み上げる衝動。情動。それはおれの中に予め埋め込まれた本能のようなもので、憎しみや嫌悪には起因しない。ただひとりのやり手として、己の自尊心を満たしたいというそれであった。
そんな阿呆なことばかり考えるおれとやつとの視線が交わる。じり、と腹の底から込み上げる何かに口角が上がった。脳内回路が鮮やかに火花を立て、紛れもない興奮が全身を駆け巡る。それは、やつも同じようだった。
ぞくぞくと駆ける殺気と、孕んだ慶びを隠さずにおれを見つめる。
「髪切ったか?」
「いやお前、痩せたんじゃねえ?」
しかし口にした会話は吃驚するくらい穏やかなものだった。俺たちはいつもそうだ、唇と腹の底がちぐはぐで合わさった試しがない。言葉を交わしても無意味だ、とおれは考えて、いや考えるより先に舌を吸っていた。
もう殆ど噛みつくような、力任せのキス。食い合いと言っても良い。まれに歯がぶつかって、やつは少し息を詰める。おれは構わず侵攻する。暫くそうして口内の柔らかさと熱さを堪能した後、やつは俺の肩を押して口を拭った。
「…っ、おい」
「ん?」
視線がぶつかると、掛け合わされるように膨らんでいく殺気。焦燥と背徳と、それから快楽。色んな感情が綯い交ぜになって、けれど現実は驚くくらい静かだ。まるでふたりきりしかいないみたいに。
「これ、こんな色だったか?」
シャツから覗く俺の龍を指し、やつが訝しげに目を細める。吐息さえも支配できる距離だ。おれはその瞳をずっと近くで見ていたかったから、その質問には沈黙を以て返した。
「紫って、俺の組の色だな?」
けれど察してしまったこの男は、ゆっくりと着物の裾をはだけさせた。にたりと笑って自身の太股に入った菖蒲を見せつけてくる。普段は目にすることのない場所に、情事の記憶が蘇って腰がずくりと疼いた。この菖蒲を見た女は――或いは男は、俺の他にいくら居るのだろう。
「自惚れんなよ、組長さん?」
そしてまた唇に噛みついてやる。
がっしりした身体にいくつもの傷を背負っているこの男なら、今更唇が切れたくらいじゃ怒らないだろう。もっと深く、たとえば俺がいつも仕事でしているみたいに、心臓に傷をつけたりしたら別だけど。
――今のところボスは、やつを殺せという命令を出しちゃいない。敵対する組織ではあるものの、以前の抗争の時に一先ずの不可侵協定が結ばれたためだ。
でも、そんな協定ひとつじゃ俺の衝動は抑えられない。こいつを殺せば確実に名は上がるし、ボスも喜んでくれるだろう。俺が勝手にヤったことにすれば協定破棄にもならない。
「ふ」
唐突にやつが笑って、今度はおれが訝しい顔をすることになった。
「何だよ」
「いい顔だな、と思って」
「…」
「どうせ俺を殺したいと思っていたんだろう」
「…ご明答」
べろりと舐めてやれば、やつの首筋がぴくりと震えた。焼け付くような視線の先には、真新しい銃痕がある。これは俺がつけた。先の抗争で俺がつけた、おれのものだ。愉悦と優越の間でうっとりと目を細めると、やつも似たような表情でおれの腹部を凝視している。
「なあ、これは俺がつけたんだ」
そのまま何針か縫った傷口をなぞられ、このままそこを開かれてしまうのではないかという本能的な警戒が皮膚をなぞる。彼の瞳は鋭く、冷たく、彼が得意にしているナイフのような硬さがあった。
このまま肌を重ねても、明日が来る保証なんてない。信頼も愛情もここにはないのだ。いつ殺されるか分からない、それこそ果てた後、キスの最中、もしかしたら一秒後かも。そうした感覚が、おれを一層興奮させる。自分でもどうしようもないと呆れるけれど、この緊張感と殺気を込めたセックスはクセになるくらいイイものだった。そう、そこらの女じゃ満足出来なくなるほど。
(アンタじゃないと勃たなくなったなんて、絶対に言ってやらないけど)
だっておれだけ惨めじゃないか。
過去に捕らわれたおれが誰かの影に取り残され、やがて両腕からすべてを喪うであろうことは、容易に想像できたのに。おれはおれの手に温度を教えたただひとりの悪魔を忘れられずにいる。それはひどく愚かしいことであると同時に、言い様のない快楽をもたらしてくれるのだった。
「ばかだな」
おれもお前も。
すべらない唇に銀のナイフ。いつだって醒めない現実の所為にして、本当は弱かっただけなのに。明け方の嘘を捨てた今のおれには、同じように立ち尽くす影しかいなかった。お互いの愚かさをひとしきり笑って、さあ何の話の続きからしようか。
「なあ、もし――」
仮定に意味などない。未来など見えている。おれたちはどちらかが死ぬ。永続的な関係はおよそ築けないだろう。それ以前に、どうしたって祝福されない。どうしたって報われないのに。
昨日の死骸を傍らに、今日も静かに息をする。四角い部屋に埋められたままの生命は彼方の景色を想像し、憧憬し、やがて衰退していく。それを人生と呼ぶくらいなら、いっそ殺されるほうがマシだろう、そう言って笑ったやつの白い歯を思い出した。記憶のすべてはセピア色なのに、そこだけ真白なのがひどく不思議だ。
なんだってこんなやつに。ああきっと、俺ら二人とも莫迦なんだ。
「もし、俺らが馬鹿じゃなかったら?」
どんなにそれを望んだって、きっとはじまらないのだと知っていた。溺れるクラゲはひかりを知らず、透明は手に入らない。ただひとりしか存在を許されない夜の淵で、ゆっくりと彼の首を締めていく行為は、同時に感傷を絞め上げていく恋に似ていた。
さあ心臓にメス、淑女に懺悔を。――この男を、奪う。
「決まっているだろう」
次に続く言葉は果たしてどちらのものだったか。夜に生きて何か温かく大切なものを失っていくうちに擦り切れたおれたちは、きっとよく似ていたのだ。だから境界線が見えなくなっていく。だから誤ってしまう。
「お前を殺す」
深藍がゆるく震えて、はじまりの衝動が込み上げてくるのを、ふたつの瞳でじっと見ていた。心臓の警鐘は沈黙に従わず、それを聞かない鼓膜だけがここにある。この恋をはじめてはならないのだと知っていた。知っていたのに。