真夜中の黒い部屋にいた。互いの輪郭が闇に溶ける。煙草の光が送り火のようにゆらゆらしていた。或いは、魂そのものにも見える。彼は白いシーツに埋もれながら、とても淋しそうだった。ゆるく繋いだ指から体温が伝わってきて、なんだか途方もなく悲しくなってしまう。きっと誰もが同じ、人形のような生命をぶら下げていた。
「いけないよ」
彼が後悔しているのは知っていた。けれど手を伸ばすのをやめられなかった。彼の血も涙も僕のものにしておきたかった。それはひどく冷たい懺悔にも似て、ひどく残酷な羨望のようだった。
「きみは前に進まなければ」
そうだ、もうすぐ世界が終わる。彼が死んでしまうなら同じことだ。もし僕のしてきたこと、僕のふしだらな感情、いっそ存在すべてが罪深いものだとしたら、それはきっと彼がそうさせているのであると確信できる程だった。それほどまでに彼は僕にとって重要、重大、重傷である。
「君の時間を奪ってしまって、すまなかったね」
彼はシーツに埋もれたまま、深海のような瞳のみをこちらに向けてきた。何もかも見透かしたような、けれど何もかもを見透かせない深いブルー。僕はそれに溺れて何年になるのか。
「ねえ、最後のお願いだ」
「…やめて下さい」
「いいから聞いてくれ」
「嫌です、…」
きみは若いんだし、とか、健康で溌溂とした女性と付き合いなさい、とか、そういう彼の命令を悉く無視してきた僕だったが、今回ばかりは息が詰まった。だって恐らくこれが、本当に。
「ねえきみは、僕を忘れて」
彼のかさついた、少し皺のある手が僕に触れる。
この皺も、冷たい体温も、きれいな白髪の髭と髪も、博識そうな銀眼鏡も。全部全部が愛しかった。好きでたまらなかった。
彼はうつくしい。
とびきりとびきり美しかった。
「しあわせになりなさい」
終わってしまう。
閉幕のベルが鳴る。
夜汽車が蒸気を吹き、彼を連れ去ってしまう。
「……好きです」
僕は莫迦だから。こんな時だって、それしか出てこない。鳴り響く終焉の中でさえ、それしか考えられないのだ。
きっと僕は彼以外を好きにならない。彼を忘れることもない。僕は彼が好きで、好きで、きっと想像もできないくらい好きだった。
言い付けを守れない僕を、恐らく彼は哀しむだろう。その青い瞳を悲愴で濡らして、深い深い海底へ沈んでいくのだ。
独りで。
「……好きなのに」
血管の浮き立ったしわくちゃの首筋に唇を寄せる。こうして触れているところから熱が伝わって何かが孵化すればいいのに、そしたら僕も枯れてゆけるのに。
それが出来ない。
「……好きだから」
例えば彼の言うように、近づく終わりが始まりで、それがとても優しいものなのだとしても。深淵に彼を置き去りにする僕の罪は消えないし、彼が独りきりだという事実もまた覆らないのだろう。
そう僕は知っていた。
それらすべてを環にする方法を。
「あなたを好きになる、覚悟をしました」
夜明け前の青い部屋にいた。互いの輪郭が漸く見えて、彼の顎のラインをなぞることができる。灰皿に置き去りにされた紫煙がクラゲのようにゆらゆらしていた。
東の空だけが二人を見てる。薄い青の中で息をしているのが、海の底にいるみたいで。
僕はずっと奥深く、彼と沈む覚悟をしたんだ。