失った記憶は、案外あっさりと帰ってきた。

強烈な痛みと苦しみを伴うだろうと僅かに覚悟していた手前、こうも簡単に思い出してしまったら妙に納得がいかない。
でも、心配していた事が無くなってよかった。
その心配事は、“記憶を思い出してもおれはおれのままでいられるか”と言う事。
ロックオンが時折見せた悲しげな瞳の意味を、おれは本当は分かっていた。
責め立てる記憶に埋もれながら、彼が密かに危惧しているように、おれ自身も、“おれ”が“おれ”でなくなる事を恐れた。
(でも、)
記憶を思い出しても、おれはおれで何も変わらなかった。“三人目”の正体が分かっても、“惺”と三人で過ごした日々を思い出しても。
皆を大切に思っている気持ちに変わりはなかったし、ロックオンを愛してる気持ちにも変わりはなかった。
何も変わらない。ただ、欠如していたものが埋まっただけ。
気持ちは何も変わっていないんだ。
背徳感が増しただけ。
この掌がどれだけ血にまみれていたのか思い出しただけ。
この脚がどれだけ汚れた道を歩んできたのか思い出しただけ。
そう、ただ、それだけ。
フッ、と右手を宙に上げる。天井に伸ばし、何かを掴むかのように握り締める。だけど、空虚な気持ちはおさまらなかった。
取り戻したはずなのに、空虚なこの気持ちが。

「にんげんなんて、だいきらいだ」

口癖の様に紡いでいた科白を、ゆっくりと、思い出すように囁いた。
でも、人間なんかよりも、
弱くて醜い自分が一番大嫌い。

刹那、物音が聞こえた。
「盗み見か」
「ちげぇよ」
おれの放った言葉に、何時の間にかそこに立っていたロックオンは苦笑いを浮かべた。複雑そうな表情だ。何時から居たのだろうか。もしかしたらおれの変な行動も全て見られていたのかも知れない。
そう思ったら少し恥ずかしい。
未だに立ち尽くす彼に、何か言葉をかけるべきなのだろうけど、何から話せば良いのか分からない。
この短い間に、随分と色々とあったから。口下手なおれは、上手く伝えられるだろうか。答えは言わずもがな否だろうけど。
「…あのさ、惺」
言葉を選んでいたおれを遮るかのように、先に話し始めたロックオン。
彼にしては珍しく控えめな声。
この後に降り注ぐ科白に嫌な予感を覚えつつ、しかし逃げることはせずに、じっと見詰めた。

「…俺に、何か、隠してるか?」

おれは一瞬だけ頭が真っ白になった。が、直ぐに気を取り直して再び言葉を探る。
きっと彼は知っているんだ。おれの記憶が欠けている事を。そうでなければ、そんな科白など出てこない。
途端に冷や汗が出てきた。背中をつぅ、と落ちる汗はおれの焦燥感を増幅させる。
彼は、おれの過去が血にまみれたものだと知ったら、離れて行くだろうか―――漠然と、そんな不安が押し寄せた。
こんなに汚いおれが、こんなに綺麗で真っ直ぐな彼の傍に居ても良いのだろうか。
(おれは怖い。)
綺麗なお前を汚してしまいそうで。
指先からおれの罪を全て知られてしまいそうで。
「おれ、は…」
返す言葉がきちんと固まらぬまま、唇からは不完全な欠片が溢れ出す。
無表情は貫き通せても、声は正直だった。
ロックオンは悲しそうに目を細めた。その仕草が更に焦燥を煽る。なあ、何時までそこに居るんだ。何時もみたいに傍に寄って来てくれよ。
おれは手を伸ばす。
此方に来てくれ、と。
しかし、その行為にロックオンは微笑みはしたが、近寄ってはくれなかった。
まるで、何かを試すかのように、おれを真っ直ぐな瞳で見詰める。
そして、問うた。

「お前は惺・夏端月なのか?それともナユタ・ナハトなのか?」

胸にグサリとくる科白だった。
惺・夏端月なのかナユタ・ナハトなのか。
その問いの答えは、きっと両方だ。
今までのおれとは明らかに違うけれど、変わらぬ事も確かに存在する。それを、惺なのかナユタなのか、どちらなのか答えろと言われたら少し難しい。
おれは口を開き、不自然に視線を彷徨わせた。“おれ”は“おれ”だ――たったそれだけの答えを捧げようと。
しかし、おれが声を出す前に、ロックオンは何か意を決したのか、おれのもとにツカツカと歩み寄って来た。
「やっぱ答えなくていい」
外に出かけた声を抑える。
刹那、ぐいっ、と腕を引っ張られて、そのおれの大好きな腕の中に閉じ込められる。ぎゅうぎゅう、ときつく抱き締められ、窒息しそうになる。彼に押し潰されて死ねるのならば、それはそれで本望かも知れない、と不謹慎にも思った。
「聞いてくれ、惺」と耳許で囁く声。先程とは違って優しいものだった。
「…俺は、どんな惺でも愛してる。戻ってきたナユタも、過去の罪も、これからの罪も、全部包み込んで愛してる。愛せる自信がある。」
「…ロック、オン…」
その科白は、おれの心の中にある氷を溶かしていく。望んでいなくても、おれが壁を作っても、彼は飛び越えるどころか突き破っておれを何時も見付け出すんだ。
例えるならそれは純白であり、そして漆黒でもある。だからと言って灰色ではない。
純白のように何にも染まらないと思ったら、不意に全ての色を吸収し包み込む漆黒になる。
その変化に、ドキリと心臓が跳ねてしまうのは、きっと彼を本当に愛しているからだ。
(愛し抜ける自信がある、か…。)
そんな彼に、おれの、全てを晒け出して良いのだろうか。彼を、この手で汚してしまわないだろうか。
瞳が彷徨う。
彼は、そんな不安すらぶち抜く程に強い眼差しでおれを貫いた。


「俺が真っ直ぐ生きられるのは、お前が居るからなんだ。だから、これからもずっと傍に居て。そして、俺が道を踏み外しそうな時はその眸[め]で責めて。一緒に笑って、一緒に泣いて、ずっと俺の傍に居て。」


(ああ、)
何処まで落とせば気が済むのだろうか。おれの心をこんなにも握り締めて。
ロックオン、お前は悉く狡いな。
自分の純白はおれが居るから成立する、なんて、そんな事を言われてしまっては、おれは二度とお前から離れられなくなる。“お前を汚したくない。汚れたおれを知られたくない。だから離れよう”――そんな残った理性までお前は潰しにかかるんだな。
「…負けた。」
静かに囁けば、彼は満足したかのように微笑んだ。
その瞳には、きっと勝てない。
愛してしまった時点で、おれの負けなんだ。そして、この先ずっと、ロックオン以外愛せなくなる。
ゆっくりと彼の首に腕を絡めると、瞼を閉じた。
今日くらい、素直になってあげても良いかも知れない。




「…、愛してる、ロックオン。どうかおれを離さないで」




答えの代わりに、熱い接吻が舞い降りた。




2011.10.17
2013.01.18修正



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