惺が倒れた。

顔面から盛大に地面に倒れ込む姿を、俺は確かに捉えていた。
「惺っ!」
愛しい人の異変に、俺は恐怖を覚えた。取り敢えず、怪我は無いか確かめる為に直ぐ様駆け寄る。未だ立ち上がらない彼女に、相当痛かったんだな、と不謹慎にも内心同情した瞬間だった。

「…―――ア、ラン…っ」

彼女の唇が、切ない声で俺の知らない男の名を紡いだ。
俺の心臓は、ぎゅう、と握り潰される。
(まさか、)
脳裏には、数日前のミス・スメラギとの会話が過る。



『…――彼女、記憶障害だったのよ』
チップの事でショックが抜けきれない俺を、更に追い詰めるかのように更なる残酷な事実を吐き出した。
『記憶、障害…?』
反芻しても、言葉の意味が全く分からない。惺が記憶障害だなんて信じられる訳がなかった。
ミス・スメラギはそんな俺の混乱に気付いていた。
『彼女、地雷を踏んで脳がダメージを受けてたのに、チップによって記憶を操作させられたの』
ミス・スメラギはどうしても惺を障害者にしたいらしい。そんな訳が無い。だって彼女は正常だ。ちゃんと俺の前に居る。彼女は頭がおかしい訳なんか無いんだ。
『だけど…惺はちゃんと自分の過去を……』
『“夏端月惺”に関する話以外はしてくれたの?』
『………っ、』
確かに、惺は彼女以外のことは何も話してはくれなかった。
生い立ちも、歳も、何もかも、
話したとしても、どれも曖昧で明確なものなんて何一つ無かった。

一番強烈な記憶だけが、彼女の中に留まって、それが彼女を此処まで走らせた。

『でもね、問題はそこじゃない』
『それはどういう……』
ミス・スメラギは困ったように前髪を掻き上げた。
『朱の教団でのチップ騒動があったじゃない?』
『ああ…』
『あの時、頭に何らかの衝撃を受けたみたいなの。暴行を受けた時に』
『まさか…、そんな……』


続きは聞きたくない。


『…――きっと、惺は記憶を思い出すわ…』




俺と目を合わせてくれない、顔を見てくれない惺。そのまま空中を睨み付けて咽び泣く。
「お前は誰なんだ」と。
その科白に、俺は最低にも内心で何処か安心していた。
まだ、惺のままだ、と。
あの真っ白な部屋の中で、惺に「おれは他の人と比べておかしいのか」と問われたあの時、俺は彼女が何処か遠くに離れて行きそうで怖かったんだ。
チップの事も、記憶の事も、あの時はっきりと言えたはずなのに。身体が戦慄いて言えなかった。
「後でちゃんと言うから」と、逃げ道を作って、優しい彼女に甘えていた。
繋がらない記憶。欠けた記憶。
苦しんでいた惺を早く救う事よりも、俺は俺の為に彼女の痛みを長引かせ気付かない振りをした。
彼女は弱い。
それは、俺が一番知っていたはずなのに。
記憶が戻ってしまった時、
彼女が変わってしまう事が怖かった。
俺を、変わらず愛してくれるのか。
怖かった。
(馬鹿だよな)
「惺…!」
それを隠すかのように彼女の名前を呼んだ。すると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。が、やはり目の焦点が合っていない。
「…“惺”?…“惺”がいるのか…?」
「おい、惺…」
なんて支離滅裂な科白。お前が愛した女性は、自らの手で葬ったではないか。
不安になって再び彼女を呼んだ。
すると、惺は再び顔をくしゃりと歪めてボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「…ちがうんだよ…っ!おれは…っ!…父さ……っ!」
――錯乱してる。
俺はここでやっと彼女の二度目の異変に気付いた。
「…おれは、…あいつを…っ!」
「惺!自分を見失うな!しっかりしろ!」
がっしりと抱き抱えて叫ぶ。今、彼女を抱き締めていなければ、本当に何処かに行ってしまいそうな気がした。
精一杯、叫ぶ。
俺は此処にいる。お前の傍に。
ちゃんと、お前が俺のもとに帰ってくるのを、待っている。
「……惺、」
情けない俺かも知れないけど。

「お前はお前だよな。」
問い掛ければ、涙の止まらない瞳は一瞬だけ微笑んだ。

「…ちゃんと、おれは、お前を愛してるから……っ」

安心しな、ロックオン。

そう告げて、惺は意識を飛ばした。
ぐたっと俺に寄り掛かる彼女をギュッと抱き締めた。
「惺…っ」
俺は、本当に馬鹿野郎だ。

「どんなお前もお前だよな…っ、惺…っ!」

こんな事で怖くなるなんて。
彼女は彼女だ。伊達に長年片想いしていない。
たとえ記憶が戻って別人になったとしても、たとえ惺が俺を愛してくれなくても、
俺は、惺をずっと愛し続けると誓う。

前言撤回。
彼女は強かった。




2011.09.22
2013.01.16修正



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