『ナユター…』

愛しい彼女の呼び声。
そのままふわりと温もり。耳許にゆっくりと吐息が近付く。そして先程とは違った甘い甘い声で『暇なの、構って』と囁く。
本当に憎い奴だ。此方の気持ちに気付いていながら、まるで試すかのようにこの仕打ち。
頑張って理性を保ち続けてはいるが、正直どうなるか分からない。今にも彼女を喰らいたい程に彼女に餓えている。
おれは歪なポーカーフェイスで振り返った。
彼女は笑う。
『73点。微妙に表情が引きつってて隠しきれてないわよ』
『うるさい。言われなくても分かる』
『はいはい』
ぷくう、と頬を膨らませる。その仕草が妙に可愛らしかった。
が、その可愛らしい表情は瞬く間に歪んだ。
どうしたのだろうか、と彼女を見上げれば、違和感に眉をしかめるかのように、ジッ、とおれを見据えている。珍しいな。惺は滅多におれに向かってこんな表情は浮かべないのに。
おれは何か彼女を怒らせるような事をしてしまったのだろうか。
彼女と同じく見詰め返すと、その紺碧の瞳が僅かに細められた。
『…ナユタ、シャンプー変えた?』
『シャンプー?』
それがどうしたのだろうか。彼女の機嫌が瞬く間に悪くなった理由と何か関係あるのか。いや、果てしなく関係無さそうだ。
しかし、シャンプーか。
(ああ、そうだった)
朝に、アランの部屋のシャワーを借りてきたな、と今更ながら思い出した。
身体を重ねて、そのまま眠りに落ちてしまって、気が付いたら朝だったから。
初めこそは嫌がっていたが、慣れてくると幾度身体を重ねても何も感じない。ただ妊娠しなければ後はどうでもいい。
昨日も何時もの如くアランに身体を求められて一夜を共にした。お互い、保守派の長と中立派の長と言う偉い立場の人間を親に持ったから、家に帰っても一人ぼっちだ。最近は、その寂しさを埋める為に身体を重ねている事が多いかも知れない。許嫁と言うよりはセックスフレンドと言った方がしっくりくるような淫らな関係。まだ若いのに、捨てたものは大きかった。
おれは『別に?』と平生を装って返した。惺はおれ達の関係を知らない。いや、寧ろおれが言えるはずがないんだ。
こんな汚いおれ、彼女には知られたくない。
惺は、未だに不機嫌な表情を浮かべながら此方を見据えている。

『今日のナユタ、アランの匂いがしてイヤ』

それは、嫉妬と捉えても良いのだろうか、と一瞬でも思ったおれが憎い。
何期待してるんだ。おれはつい最近告白すら拒否されたんだぞ。都合良く解釈するな、おれ。
彼女は、おれにアランの香りがついている事に怒っているのではなく、その香りに大嫌いなアランを思い出すから怒っているんだ。勘違いするな、おれ。
惺は暫くの間、ジッ、とおれを見詰めていたが、諦めたのか『もういいわ』とだけ言って、この話題に終止符を打った。

『で、今日は何して遊んでくれるの?』
『おれが遊ぶのは決定事項か』
ふふ、と笑う彼女を見詰めながら『はあ』と溜め息をついた。
つくづく彼女には勝てない。逆らえない自分がいるんだ。きっと人はこの事を“惚れた弱み”と言うのだろう。
さて、閑話休題。何をして遊ぼうか。
折角彼女が乗り気になっているし、幸いな事に今日は邪魔をしてくるアランは中立派の会合で居ない。二人だけでゆっくり出来る。何をしよう。
海に行こうか。それともおれの家に誘うか。あ、でもやっぱりこれにしよう。
『よし、かくれんぼ、やるか』
鬼の惺がおれだけを一生懸命追い掛けて見付け出そうとする光景。それを思い浮かべるだけで何とも言えない優越感を覚える。
今日くらいは彼女の瞳におれだけが映るようにしたい。
『やった。本当に遊んでくれるの?』
『自分が言ったんだろ。全く。お前が鬼な』
『はーい』
おれは駆けた。
この先に待ち受けるものに一切気付かずに。


笑顔を失ったのは、この日だった。




2011.11.23
2013.01.23修正



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