消えてしまおうと思った。だから、仕事も立場も想いも全て断ち切ってこの世界から逃げようと必死で手だけが動いた。
全て忘れて、私はお腹の赤ちゃんと二人で生きて行こう。ゆっくりとお腹を撫でる。ごめんね、あなたは一生お父さんを知らないまま生きていくかもしれないわ、なんて。責任も取れない癖に、一丁前にこの子だけはどうしても産みたいなんて愚かにも考えている私がいるの。
みっともないわね。パトリックを断ち切ろうとしているのに、その赤ちゃんは断ち切れないだなんてね。
「ああ、もう…、わたしっ…」
こんなにも苦しいのに、涙は出ない。我慢し過ぎて涙の流し方を忘れてしまったのかも知れない。思えば、私の人生は人に弱みを見せない為に必死で隠しながら生きていた事が多かったかも知れない。付き合っていたパトリックにさえ涙は見せなかったし、赤ちゃんが出来た事を正直に言えないこの状況が私の全てを物語っている。結局は、怖いだけなのよ。
捨てられるのが。
逃げられるのが。
じわりじわりと漸く視界が歪んできた。傷付いて弱り果てた心が麻痺している。だから、こんなにも泣けないのかも知れない。
(はやく、逃げよう)
これ以上傷付く前に、パトリックにもあの大佐にも会わないように。
スーツケースに全てを仕舞い込み、立ち上がったその刹那的に、

―――ガチャリ、と

ドアノブが回る音。
戦慄が走る。だって、合鍵を持っているのは一人しかいないもの。
「パトリック…」
何食わぬ顔でやって来た彼は、私の持っているスーツケースを見て、瞬く間に表情を歪めた。
「それは何だ?何のつもりだ?」
「出て行くわ。貴方とはもうやっていけない」
目が見開かれる。唇は「そんなこと、お前に出来るのか」と問う。残念ね、出来るのよ。私、貴方が思っている程強くないから。だから傷付く前に逃げるの。貴方の前から私が居なくなっても貴方は全然傷付かないから、今ここで居なくなっても何ら問題は無いでしょう?
「本気か?」なんて珍しく真面目な表情をするから、私の心臓はドクンと跳ねる。動揺を悟られないように静かに頷いて見せれば、パトリックは私の腕を掴んで壁に勢い良く押し付けた。一瞬だけ苦しくなる呼吸。何が起こったの。

「離れるなんて許さない」
ギロリ、と蛇のような眼差しが胸を刺す。だけど流石にこの科白にはカチンと来た。大佐大佐と言っておきながら私に離れることすら許してくれないなんて、何て身勝手な人なの。
私の自由にならないと分かった瞬間、不思議とさっきまで出なかった涙がぼろぼろと溢れて来た。
「じゃあ…っ!!私にどうしろって言うのよぉ…っ!!!」
情けなく絞り出した声に、パトリックが驚いている。ああ、遂に彼の前で泣いてしまった。弱みを見せてしまった。捨てられる。きっと、もうお仕舞いよ。止まらない涙に絶望だけが私を責め立てる。
パトリックはニッコリと微笑んだ。

「やっと、泣いてくれたな」

(どういう、ことよ…)
頭がついていかない。パトリックは私に何をして欲しかったの?泣いて苦しんで欲しかったの?これが答えなの?
悲しみの次には怒りが沸き上がってきた。どうしてこんなに私だけが苦しまなければならないのよ。
もう捨てられると分かっているのならば、綺麗なままで終わる必要は無いわ。思いの丈をパトリックに全てぶつけてしまおう。
「パトリックは例え遊びだったとしても!私は心の底から貴方を愛していたわ!浮気されても!大佐に夢中でも!酷く抱かれても!でも!もう限界なのよ!貴方が何を考えているのか!もう分からな――…っ」


抱き締められた。


「ごめん。フレア」

その一言が、私の気持ちを妙に冷ました。どうしてパトリックが謝ってるのか分からない。だって、彼は私なんかもう必要無くて、大佐が大好きなはずだもの。パトリックは私の首元に唇を寄せた。顎、頬、とその唇が這う。耳元まで辿り着くと、再び「ごめん、フレア」と一言。腰から背骨を通って、脳天まで甘い痺れが襲った。
「俺、強い女が好きだ。自律していて…。俺に甘えてくるような女じゃなくて、共に支え合えるような女が」
「…知ってるわよ……」
だからこんなにも頑張って強い女でいようとしたのに。全て大佐に奪われたのよ。

「勘違いするなよ。大佐とは何とも無い」

「う、そ…よ…っ」
「本当」とパトリックは告げた。
じっと此方を見詰めて。

「お前は…、強すぎたんだよ…」

強すぎた?どう言う事なのか。
パトリックは続けた。
「フレア、お前を心の底から愛しているよ。強いお前が好きだ。でも、何でも一人で抱え込むお前を見たら、俺はお前にとって何なのか分からなくなった。強い女が好きだったはずなのに、今度は涙すら見せてくれないお前に不満を感じた。今思えばただの我が儘なんだ。大佐を使って試すような真似をして、わざと酷く抱いて、冷たく接して…」
「つらかったな、ごめんな」と一言。私はパトリックの背中に腕を回した。

ああ、私達、擦れ違っていただけだったのね。

「好き…。好きよ。パトリック…」
「俺も。好きだ。フレア」
つぅ、と、また一筋涙が零れる。
ああ、今なら言えるかも知れない。
「パトリック、」
「ん?」
「一人で抱え込む私が嫌なのよね?」
「ああ。」
「じゃあ、“これ”は、抱え込まなくて良いのよね?」
パトリックは「何の事だ?」という表情を浮かべている。そんな彼に、仲直りの取って置きのサプライズを。


「貴方の子供が出来たの。」


一瞬の間。
次の瞬間に降り注いだ抱擁と笑顔を、私は一生忘れないわ。



THE END
2013.03.02


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