だから嫌いなのよ。

そこにある幸せに気付かないで、何時までもずっと、無くなった幸せだけに想いを馳せて、未練がましい。
私の欲しがっているものが、すぐ目の前にあると言うのに、彼女はそれに手を伸ばそうともしないで捨てているの。私の欲しいものを、私の目の前で、捨てているの。

だから彼女は嫌いよ。

「お、惺ー…」
ライルの声が食堂に響く。二人だけだった空間に、お邪魔虫が入って来る。そのお邪魔虫は、先客が居たとは思っていなかったみたいで、一瞬だけ予想外だと言うように目を丸くした。
「あー…、悪かったな。」
空気を読んで出て行こうとする惺さん。だけどライルが「行かなくていい」と声をかける。放っておけば良いのに、という私の心境に気付かずに、そのまま彼女を引き留めてしまった。やっぱりライルは惺さんの事ばっかり。そんなに一緒に居たいなら、何もかも投げ出して彼女の元に行けばいいのに。醜い思いばかりが心に広がる。ヤな女ね、私。本当に彼が向こうに行ったら耐えきれない癖にね。
惺さんは小さく「悪いな」とだけ言って、コーヒーを淹れ始めた。
コーヒーの苦くて良い匂いが空間に広がる。
ライルは惺さんから視線を戻して私を見た。
「ごめん、アニュー、何の話してたっけ?」
「コードネームの話よ」
そんな事も飛んで行ったの。兄さんのコードネームをそのまま使ってるんだ、なんて笑顔で言ってたのは貴方じゃない。惺さんが来て全部そっちに意識を持って行かれたの?
笑顔の下で責める。悔しい。何時だってライルは惺さんばっかり。
気付かれないように彼女を睨み付ければ、お湯を沸かし終わってインスタントコーヒーの粉末をマグカップに入れている姿が見える。
「ああ、そうだ」
私の視線に気付いたライルが、何かを思い付いたかのように言った。「なあ、惺はどうして“惺”ってコードネームなんだ?」と。ああ、惺さんの方なんか見なければ良かった、と思った瞬間。
―――ガシャンッ!
と、マグカップが割れた。
手を滑らせたのか、突然の呼び掛けに驚いたのか、どちらなのかは定かではないけれど、ただ目を見開いて落としたマグカップの残骸を見詰めている惺さん。コーヒーがじわじわと床を侵食する。
「わ、悪い…」
ライルが「大丈夫か」と問う前に、先に出された謝罪の言葉。そして、そのまま片付けを始める。その瞳には、確かに動揺の色が映し出されていた。
(少し、意地悪しても構わないかしら)
そんな思いが生まれた瞬間、私は直ぐ様行動に移した。
「惺さん…もしかして、“惺・夏端月”というコードネームに何かあるんですか?」
色違いの瞳が見開く。右目の漆黒と左目の紺碧。ああ、ビンゴね。私は内側で黒く笑った。
ライルも、私の問いに興味があったのか、何も言う事もなく彼女の言葉を待っている。
割れたマグカップを片付ける手すら動かない。
「おれの…コードネームは…」
彼女にしては珍しく、弱々しく呟くような声。マグカップの欠片をジッ、と見据えて何かを思い出している。
「おれの…、コードネーム、は…」
眉間に皺を刻む。そして、こちらを見上げて笑った。悲しい顔。凄く、悲しい顔。答えられないよ、ごめん。そう言いたそうな顔。
暫しの沈黙。
話を逸らしたり、質問を取り下げたりしない辺り、私とライルはなかなか意地悪な人。
惺さんは、小さく息を吐いて「…このコードネームは…おれの…、全てだ…。」と囁いた。

「おれがおれである証。おれが生きていた証。おれが愛した証。おれが愛された証。そして、おれへの罰」

よく分からない。
そのコードネームにそんなに重い想いが込められているなんて、誰が思っていたかしら。隣のライルも目が点になってしまっている。
「…惺」と呼び掛ける彼。彼女は、そんな声に気付かない振りをして、拾い終わったマグカップの欠片をビニール袋に無造作に投げ捨てた。小さい声で「お気に入りだったのにな」と呟く。
さっきの科白の意味は分からなかったけど、過去にとらわれ続けていると言う事は理解出来た。

…やっぱり彼女は嫌い。

ずっと過去ばっかり追い掛けているのに、私との勝負に何時も勝つんだもの。私の方が、ライルの事を思っているのに。ライルは何時も、自分の事を愛している私ではなく、兄を愛している彼女を取るの。
嫌いよ。彼女なんか。
刹那、私の内心のその言葉を聞き取ったかのように惺さんが此方を向いた。ライルの方じゃなくて、私の方を見て。
「邪魔して悪かったな。おれ、行くから」
それだけを告げて。
カツカツと靴音を鳴らして食堂から出て行ってしまった。その背中を見据えながら、私は小さく下唇を噛んだ。

「…惺、結局コーヒー飲まないで行っちゃったな」

変な気なんか遣って。

だから嫌いよ。
惺さんなんか、大嫌い。




2013.04.05

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