やられた、と思った。
「…ん…いざ、や…?」
重そうな瞼から覗く瞳。
自分の名前を紡ぐ、唇。
夕陽のせいか、やけにきらきらと透き通っている金色の髪。
「…っ」
何故だか分からないが息を呑んでしまい、同時にやけに胸が苦しくなる。
これまでこの男相手に、こんな先手を取られたような敗北感を覚えたことは一度だって、なかった筈なのに。
いや、きっとこれはこの状況と微妙な時間帯が悪いのだ。
誰もいない教室、時刻は夕方で西日が射し込んでいて、ぼんやりと彼を浮かび上がらせているその様子はまるでどこぞの少女マンガのようなシチュエーション。
(なんか、なんか……)
最初は面白そうだから、からかおうと思っただけだ。
机に突っ伏して寝ている彼にどういう悪戯を仕掛けてやろうかとか、露わになっている頬に落書きでもしてやろうかとかそういう他愛もないことを。
けれど、なんていうか。
すやすやと眠るその顔が普段の彼とのギャップを感じて、あまつさえ可愛いなと間違った方向へ思考が傾いてしまったから。
凶暴で獰猛な獣を起こさぬよう恐る恐る頭を撫でてしまったことが間違いの始まりだったと何故その時に気が付かなかったのだろう。
「や、やぁシズちゃんやっとお目覚めだねつかそのまま永遠に眠ってくれれば良かったのに」
「…手前、今俺に何してた…?」
まさか頭を撫で撫でしていましたと言えるはずもなく。
「別に?まだ何もしていないさ」
「…まだってことはこれから何かしようとしてんだろ?例えばその油性ペンとかでよお?」
彼が覚醒して咄嗟に後ろ手に隠すという俺の行為は、どうやら無意味だったらしい。どんだけ動体視力良いんだよと思い、シズちゃんの頬に俺のセンス溢れるアートを描くチャンスが失ってしまったことに舌打ちを漏らす、が、先程の自分の行動に気付かれていないことの安堵感の方が大きかった。
幸い、まだ完全に起きていないのか、立ち上がって少しフラつく彼を見て逃げるなら今の内と判断した俺は机から机へと飛び乗りそのまま教室の扉へと目指す―――ことは出来ずに終わった。
「待ちやがれ!」
「!?」
てっきり机を投げつけてくるのかと思った。
それだったら、軽く避けてそのまま廊下へと進むことが出来たのに。
まさか、単純に腕を掴まれて床に引きずり倒すなんて、やはり単細胞の考えていることは読めない。
しかも勢い良く打ちつけた後頭部と背中の痛みを感じさせる間もなく、ずしりと身体に圧迫感がかかり、腕やら肩をがっちり押さえつけられてしまった。さてどうしたものか、と額に滲み出てきた汗を感じていると「これで手前は逃げらんねぇよな、臨也くんよお」と余裕に満ちた声が真上から降り注いできたので、言い返すべく睨み付けた。
「なーんか随分嬉しそうじゃない?そんなに俺を押し倒せて幸せかい?この化け物」
「ああ、幸せだ。これから手前を思う存分ぶん殴れる。それに、」
手前のそんな余裕のねえ顔、初めて見たぜ。
みしりと己の骨が鳴り、このまま片手で肩を粉々にされてしまいそうな恐怖感と苦痛が襲いかかってくる、が、俺の思考は別の方向へと傾いていた。
人気のない校舎。
二人きりの教室。
差し込む夕日が、再びシズちゃんを照らして。
心底楽しそうに、腹が立つくらい嬉しそうにしている顔が、淡い光の中で輝いているように見える、なんて。
(待て待て待て…!)
先程の己の行動といい、嫌な予感が脳内をよぎる。
それはまず生きている限り決して起こり得ることはなく、認めてしまえば最後、明日から俺の人生が間違い無く百八十度一変してしまう程度には信じがたいもので。
しかし一度意識すると、それは連鎖のようにあらゆる物事が繋がって、もう元の自分には戻ることができないと、沢山の人間を観察してきた俺が誰より理解していた。
(嘘、だろ…)
この俺が、まさかこの男に『恋』をしているなんて。
「あ?なんだ急に黙りこくっちまって」
「…………」
「とうとう観念したか?臨也くん」
「………せ」
「ぁあ?聞こえねえよ。つかなんか手前顔があか「離せって言ってんだよ!!」」
ゴツン!!
あのシズちゃんを怯ませる程だったから、我ながら渾身の頭突きだったと思う。押さえつけられていた力が弱まったと同時に、鉄の塊のような腹を思い切り蹴って、振り向くこともせず一目散に教室から飛び出した。
直後に背後から怒号が轟いたが、いつものようにおちょくりながら逃げることなんて、出来るわけがなかった。
もつれそうになる脚を叱咤し、この煩い心音をどうにかしてほしいと切に願いながら廊下を駆け抜ける。
途中で頬が濡れていることに気付いたが、理由なんてたった一つしか思い浮かばない。
それでも今だけは、額の痛みのせいだと自分に言い聞かせることしか出来なかった。
fin.
叶わぬ恋など、柄じゃないのに。