ここまで俺の想定範囲を根本から覆す人間も、恐らくこの男以外に存在しないだろう。


「い〜ざ〜や〜く〜ん」

ドン、と物凄い重圧を背中に感じたと思えば、耳元から地を這うような、例えるなら地獄の底から聞こえてくるような低く掠れた声。高校時代からちっとも変わらないので振り向くまでもなく(というか、のしかかられているのでしたくても出来ない現状だ)その声の人物を認識出来たのだが。

「シ、シズちゃん?」

不覚にも己の発した声が上擦ってしまったのは、いつもの敵意も殺意も包み隠さず剥き出しにした気配を感じないからで。
また付け加えるなら、いざやくんいざやくんと呼ぶ唇から漂うアルコール臭のせいでもあると言っていい。

(酔ってるシズちゃん初めて見た…)

己の肩口に埋めているその顔を横目でチラリと確認すれば、やはり見慣れた眩しい程の金髪とやけにしっくりくる(なんて絶対言わないが)サングラスが視界に映る。
ただ、いつもと異なるのは。
桜色にほんのりと染まった頬と、とろんと瞼が重そうな焦点の合っていない少し潤みを帯びた目。目元を縁取る睫毛の一本一本でさえこの至近距離だからこそ見えるわけで。
普段の姿を思い出せばそのギャップに少なからず驚き、思わずジッと見つめてしまう。

――今なら。

この男をこの手で殺せるかもしれない。泥酔していてこんなにも無防備な、今なら。
千載一遇のチャンスとも云うべきこの瞬間を俺は逃がしたくない。
逃がしたくない、のに。


(クソ…これは一体どういうことだ…?)


このままずっと、こうして見つめていたいだなん――

「いざや」
「!」

突然、耳元で名前を呼ばれ背筋にぞくりと奇妙な感覚が走った。有り得ないことだと分かっているのに遮られた思考を読まれたのではないかと一瞬、血の気が引いた。
気付けばこちらをジッと見据えている双眸に心臓が一段と大きく跳ね上がる。


「おまえよぉ…ちかくでみるとけっこうきれーなつらしてんじゃねえか、ああ?」
「……………は?」
「ったく…おれはてめぇのせいでろくにおんなもできなかったっつうのによー」
「そ、」


それはシズちゃんの馬鹿力のせいもあるでしょ、と。
そう言葉にするつもりだったのに、最初の一文字しか口に出せなかった。
鷲掴みと表現するに相応しい程、大きな手のひらで頭をぐっと掴まれ引き寄せられたと思ったら。


「!?」


それはまさに獣に噛みつかれたような、感覚と感触。


「…――っにすんだよ!」


真っ白になった頭で出来たことは、ポケットに仕込んであるナイフの存在を忘れて、素手で相手の顔を殴ったこと。意味の無い抵抗だと理解していても、ぐるぐると未だ混乱している頭ではそれくらいしか出来なくて。
殴られた勢いで地に倒れた相手に目もくれず、走ってその場から逃げる。
追いかけてくる気配が無いのでそのまま眠ってしまったのだろう、その方が自分にとってどれだけ助けられたか。

(なに今のなに今のなに今のなに今のなに今の)


な に い ま の !


後頭部に置かれた手の感触。
鼻孔を突き抜ける酒の臭い。
唇から唇へと伝わる、熱。


風を切るように走った。

先程の出来事が夢であればいいと、ただひたすらに。



当分、この頬の熱は治まりそうにないと頭を抱える未来になると分かっていても。



fin.

酔っ払いシズちゃんが書きたかっただけです。
臨也が乙女すぎる…


おまけ

「今日という今日はぜってー逃がさねえ。わざわざ池袋に来たってことは…死ぬ覚悟は出来てんだろうなあ!?」
「………シズちゃん」
「あ?」
「昨日のこと…まさか何にも覚えてないとかそういうベタな展開じゃないだろうね?」
「…昨日?昨日は手前に会った覚えはねーぞ。会ったらぶっ殺してるかんな。仕事帰りにトムさんと飲んだくらいだ…ま、ちっと飲み過ぎたがな」
「……起きたら、外だった?」
「あぁ?手前それ何で知ってやが「シズちゃんのバカああああ!!」」
「な…んだとゴルァ!!」
「頼むから早く死んでよほんとにっ!」




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