※先天性女体化
どうやら思っていた以上に長い間燐と話し込んでしまっていたらしい。
慌てて廊下へと飛び出したは良いものの、勝呂がどちらへ行ったのかが分からなければ追いかけようもないことに気が付いた。
「ぼ、坊ー!」
声を上げてみるも、返事は元より期待していない。
さて、どうしたものだろうか。こんな時小説や漫画の中のヒロイン達なら、幼なじみの勘というもので見つけるのだろうけれども、今の廉には奇妙なくらいに彼の行きそうな場所が思い浮かばなかった。
行きそうでない場所は分かるのに、と焦れったく思う気持ちがこみ上げる中で必死に考えるうちに、ふと燐の言葉を思い出す。
友達の事ぐらいわかんねーんでどうすんだよ、その言葉は今の廉に深く突き刺さった。
こんなにも思い浮かばないのならば、もしかして自分は彼と友達ではなかったのだろうか。親友だと言ったのは、誰だ。結局、彼との関係とやらは嘘で塗り固められた虚構であったのか。
「そんなん……いややっ……」
思わず漏れてしまったのは紛れもない本音。そして、彼との関係がそんなものではないのだという願望にも似た否定。
二つにわかれた廊下、どちらに進むか。
廉はグッと目を瞑った。廉には分からない事だって、廉造には分かる事もある。
彼と友人であったのは廉造で、彼に恋心を抱いていたのは、廉。
一見同じようで、この“二人”は全然違う。それを知っている廉は、廉造を頼ったのだ。
そうして自分と彼の“何となく”で選び出した道を、迷わず進む。
それから先は終わりの見えない廊下がただただ続いているだけであった。
走って走って走って、邪魔になって脱いだ靴をそのままに素足で駆ける。
汗はかくし、息は切れるし、久しぶりの素足は痛かったけれども、走るのは止めなかった。
そうすればあたかも何もなかったかのように歩く勝呂が視界に入り、ラストスパートをかける。
そして漸く手が届く距離まで追いついた所で、その手を取ったのだ。
「坊!」
それと同時に叫べば、弾かれたようにこちらを向いた彼。
「…………なんや」
たっぷりと間を取った後に低い声で問われたその言葉からはありありと不機嫌が浮かび上がっている。
怖い。
けれども、怯んでいたって仕方がないのだ。
「ごめんなさい」
手を掴んだまま頭を下げる。
角度は九十度。幼少時代に習った、謝罪の礼だ。習ってから今まで、こんなに本気で頭を下げたことは無かったけれど。しかし、これは彼女の中で最大の謝罪なのだ。
するとその誠意が伝わったのだろうか。はぁ、と大きな溜め息を吐くと、勝呂はくるりと身体ごと廉に向き直った。
「何でや」
そうして放たれた疑問。
「坊?」
その真意がよく分からずに首を傾げると、眉根に皺を寄せながらグッと手を強く握り返される。
「何で、俺に何も言わんかったんや。」
「何で、て……」
「こっち来てから、絶対困ったことあったやろ。そん時、なんで俺んこと頼らんかったんやて言うとんねん。」
そうして問われた内容に、廉は耳を疑った。
彼は、何を言っているのか。
他にもっと、たとえばどうして女であるのに性別を偽って生活していたのだ、だとか、どうして自分には女であることを言わなかったのか、だとか、色々言うことがあるだろうに、何故そんなことを。廉は勝呂が良く分からない。
すれば、それを的確に読み取ったのか、彼はあーと声を漏らした。
「お前が女や、言うんは……そらびっくりしたで。びっくりし過ぎて部屋脱け出してしもた。けど、よお考えたらどうせ八百造あたりがなんや俺守るためなら何やかんやいうて気ぃ回してくれたんやろ。その、気ぃ付かんで悪かったな。堪忍や」
「ほな、男やて騙しとった事、怒ってないん……?」
「あ?それはあんだけ長いこと一緒に居った癖に気付かんかった俺も悪いやろ。んな阿保らし事に怒らんわ。」
まぁ、さっき言うたようにビックリはしたけどな、そんだけや。そうして告げられた言葉があまりに予想外で、廉は目を見開いた。本当に、こちらが予想だにしなかった方向を突っ走るお人だ、としみじみ思う。
そして、そんな所も好きなのだと思い返した。
「せやけど、頼らんかったことに関しては、怒っとる。それとも何や、俺は頼るに値せんのか?志摩。」
「そんなこと有らしまへん!」
「ほな何でや!」
「やって……!」
そこで、言葉がつっかえてしまう。確かに秘密を打ち明けた所でどうせ何時かはまた、受け入れてもらえるだろうということは薄々分かっていた。分かっていたけれど、それでも廉は彼から突き放されるのが怖いと言い、逃げていたのだ。
実際は廉造が廉に戻ることを極端に怖がっていただけであると言うのに。
廉造が廉に戻るという事は、すなわち恋心をあらわにするということと同義である。
恋心と忠誠心は違う。となれば、勝呂だけの“志摩”は勝呂の隣には居られなくなるだろう。そうすれば、志摩の五男坊、否、志摩の三女はお役目御免となり座主血統である勝呂とは全く違った道を進まされるに決まっている。もう、二度と会えないかもしれない、そんな将来なのだ。そしてそれは、もう十数年というまさしく廉の人生そのものであるこの恋心に永遠の別れを告げることである。そんな事、耐えられるはずも無い。
きっと、狂ってしまう。廉にとって、彼の居ない未来なんて明るくもなんとも無いのである。
「やっぱり、言われへんのか。」
とそこに聞こえてきた勝呂の声。
悔しさが滲み、一抹の寂しさのようなものや悲しみに似たものが織り交ぜられたその声に、廉は思考を止めた。
もしかして、自分は彼を悲しませているのではないかと、気づく。そして彼の傍にいる上で、いつだかにこっそりと決めた事を思い出した。この、恋心を隠す代わりに、彼をきっと悲しませないと。彼に吐く嘘の代償だと。そう決めたのは確か小学生の頃。その時、どうしてそうやって心に決めたのか。
それは、彼が泣き、悲しむ姿を見ることが辛くて辛くて堪らなかったからだ。もう二度と見たくないと思ったからだ。そんな彼を、見ていられなかったのだ。
そう、悲しむ顔を見るのが嫌だったから――。
「……好きやから、坊にだけは言えんかった!絶対に、絶対に秘密にせんかったらあかんかったんや」
気が付けば、口から転がり落ちていた。
必死に取り繕って、絶対にバレないようにと細心の注意を払っていた、墓場まで持っていこうと思っていた気持ちがいとも簡単に。
なんともまぁ薄っぺらい秘密だろうか。
彼の声一つで簡単にこぼれてしまうだなんて。
嗚呼、何だか無性に彼の顔が見たい、また、あの時みたいにつらそうな顔をしているのだろうか。
そう思ったが、しかし首が動かない。
「ほんまか……?」
上から降ってくる声に、ただ返事をするだけしか出来なった。
「……こないな嘘、よお吐きまへんわ。」
「ほーか」
「……おん」
このとき初めて顔を見ずにしても会話は続くのだということをしった。それを感じると今までどれだけ自分が彼の顔を必死に見ながら会話していたのかを思い出させる。
そんなことを考えていればやがて勝呂が押し黙ってしまった。
ああやっぱり言ってしまうのはダメだった、得意な建前で逃げれば良かった。
そして会話が止まった途端湧き上がるネガティブな感情。もうこれから先は、彼とは別の人生を送るのだろう。彼に関与することなく、ただ一人、志摩家の三女として、この命を全うするのだ。などと頭の中でぐるぐる回る言葉に暗い未来を想像していると、ぐいっと繋いでいた手を引かれる。
その衝動に驚いている間に、勝呂の腕が腰に回った。
「こんどアホ。さっさと言いや。」
そしてぎゅっと、抱き締められてはたまらない。一体全体どうしてこんな事になっているのか。廉には分からなかった。自分は大好きな人の腕の中で、抱きしめられていて。どうして、どうして、どうして。そんな言葉ばかりが頭をめぐる。
「お前が困っとるん、知らんかったこっちの身ぃにもなってみぃや。そないな隠し事、なんもおもろないわ。それにやな、す、好きな奴に頼られへんのかて、めちゃくちゃおもんないわ」
「好きな人……?」
けれど、そんな頭なりに言葉は受け取れる筈だ。なのに、何だか廉の願望のような言葉が聞こえてきて首を傾げる。
「おん。なんや、お前が好き言うたらおかしいんか」
するとえらくしれっと、好きという言葉を彼は言った。
そこで廉は理解したのだ。彼の好きと、自分の好きは違うのだということを。
「けど、坊の好きと、おれの好きはちゃう。」
ぐっと唇を噛む。そう、彼の言う好きはきっと友愛や家族愛の好きなのだ。だから、あんなにすんなりと、言葉を紡げる。そういった意味を込めて噛めば少し血の味がした。
と、その言葉をゆっくりと咀嚼したらしい彼は繋いでいた手を離すと、両手を肩に置き、ぐいっと身体を離す。
それに驚き漸く勝呂の顔を見た廉としっかり目をあわせると、一呼吸おいた後に、口を開いたのだ。
「俺の好きはなぁ、志摩、お前にキスしたいとか、抱き締めたいとか、その、抱きたいとか思うそういう好きやで。」
「嘘や、」
信じられなかった。だって自分は女だけれど、どうしようもないくらいに男なのだ。彼との思い出は全て、廉造という一人の男のものなのだ。勿論勝呂の性的対象は女性であるし、これは長年連れ添った自分が誰よりも知っている。それなのに、彼は廉を好きだと言う。
そんな事、信じられる訳がなかった。
その気持ちが通じたのだろう。再び俯いた廉の顔をのぞき込むようにすると、勝呂は声を張った。
「嘘やない。俺が抱きたい思ったもんは、お前だけや!男も女と関係ない、お前だけなんや!」
そうして、今度はギュッと、抱き締められる。
そうすることによって聞こえてきた心音の速さはあまりに廉のそれと重なって、思わず涙がこぼれた。
「信じて、ええの?」
勝呂のYシャツに染み込んでいく涙は止まらない。何だか馴染みのあるその胸元に額を擦り付けながら、ただただ問うた。
「信じてええ。俺は、お前が一等好きや。」
さすれば間髪入れずに返ってきた言葉に応えるように背中へと腕を回せば、グッと力強く抱き締められる。
「……頼らんくて、堪忍え……」
「ええ。気にすんな」
「うちも、坊が一等好きや」
「初めて、ほんまもんの志摩に会えた。」
そうして上から降ってきた声には喜びが浮かび上がっていて、酷く安心した。
そして、やはり彼が悲しむのは嫌いだと、廉ははっきりと思ったのだ。
きっと二人はこのまま付き合うのだろう。
そうして、いままでの勝呂と廉造の記憶を手掛かりに、二人の新しい生活が手探りで始められる。その先に何があるかは分からない。
もしかしたら二人を引き裂く何かがあるかもしれないし、真っ暗な未来が待っているのかもしれない。しかし、そうしたらまた二人で乗り越えればいいとそう思えた。
そんな事よりも今は、これからの未来を彼の斜め後ろではなく、隣を歩いて生きていけるのだという、ただそれだけの事実を噛み締めていたいのだ。
隣
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