「正美ー!」
トタトタと駆け寄る小さな影。少女と思しき美しい顔をしたその少年は珍しい櫨染(はじぞめ)の髪をゆらしながら同年代の少女に抱きついた。
「また武道の訓練?」
優しい表情を浮かべた少女は優しく少年の髪を撫でた。
「うん!強くなってさ、いつでも正美を守れるようにするんだ!」
「ありがとう。楽しみにしとくね」
にっこり笑う少女に大きく頷くと更にきつく抱きつく。
「苦しいって正臣。そんなにきつく抱きついたら!」
「うー、だって正美に抱きついたら落ち着くんだもん・・・・」
むにゃむにゃと口を動かす正臣に苦笑する。正臣の甘えたには困ったものだと思うが、自分だってなんだかんだ言って弟が大好きであるのだからしょうがない。
「はいはい。とにかく今は離して?」
渋々と離れた正臣の頭をもう一度撫でると口を開く。
「今から食事の準備の手伝いをしないとね。」
「また?本当に正美は台所が好きだよなー。」
「うん、だって私が私で居られる所だもの・・・・」
そうでしょ?微笑んだ正美の表情はいつになく切ない。そんな正美を見て正臣は複雑な心境に陥るのだった。
二人は紀田家の二代目の子供。一代で藤原氏をも押し退けた先代は祖母にあたる。
生まれてからずっと必ず天皇家に嫁げと身内から言われ続けていた正美。紀田家にとって女の子はとても重要な”物”。学問はもちろん礼儀作法から美容まで抜かり無く躾けられていた。そのせいか実年齢よりも年上に見られる事がしばしばあった。妙に大人びた彼女は既にそこいらの大人達よりも礼儀正しかったと言えよう。
そして年端も行かぬ少女に裁縫をさせたり礼儀を教え込んでいる両親を影でずっと見続けていた正臣。
元来、紀田家は天皇に嫁ぐ為だけの一族。故に不要物として扱われていた正臣は、ろくに構ってもらえずいつも一人で武道の修行に励んでいた。いつか正美のように褒めて貰いたい、それだけが正臣の行動全ての原動力だった。賢く何でも一度言われればすぐに理解できた正臣はよく家庭教師として来ていた女中などに褒められていたが、遂に一度も両親に振り向いてもらう事は出来なかった。
正美は束縛されていながらも確かに愛情を貰っていた。それが正臣には羨ましくて仕方が無かったのだ。一度も振り向いてもらえない、愛してもらえない。正臣が同じ空間に居てもそこには何も無いような顔をして正臣をシャットアウトする両親。いままで抱きしめられた事など無かった。きっと生まれてきた時だって男だと分かった瞬間放り投げた事だろう。それを理解したのはもう随分昔の話だ。
しかし頭で理解していようと心はその事実を拒絶した。竹刀を手放せなかった。正美に何かがあった時に守れたら褒めて貰えるかもしれない、そう考えたからだ。今はそんな事は無いのだが、当時は正美が嫌いで嫌いで仕方が無かった彼は正美がどこかで襲われれば良いのに、なんて心の底から思っていた事もあった。
愛情が欲しい彼にとって、何の努力をしなくても両親の愛情を欲していた彼にとって正美は羨むべき存在であり、同時に愛情をくれる唯一の肉親であった。
正美からの愛情に気が付いたその時から、正臣は竹刀を握る理由を変えた。褒められたいという気持ちよりも純粋に正美を守りたいと思うようになったからだ。正美に愛情を貰いたい、そんな気持ちがいつしか生まれる。そしてそんな正臣を正美は受け止めた。
正美も、状況は違えど正臣と同じように思う所があったのだろう。愛情を求める少年と束縛を拒む少女。いつしか彼らは出来るだけ多くの時間を共に過ごそうとしていた。お互いの隣に居る時はありのままの自分で居られたから。
そんなこんなでずっと一緒に居る正臣と正美はお互いの微妙な変化にも気づくようになった。
だからだろう。誰も気づいていなかった事に正臣は気づいていたのだ。
先月から正美の笑顔が変わった、と言うことを・・・・・・
100516
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