切っ掛けがあれば
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 何か切っ掛けがあれば、と思っていた。そう、何かがあればきっと、自分は彼の手から解き放たれて自由になれのだと。それなのに、何故、こんなにも。正臣は思わず舌打ちする。
 久しぶりに行った新宿の高層マンション。その最上階というなんとも嫌みな場所にある、雇い主の部屋は、まるで死後の世界のように冷えきっていた。明かり一つないその部屋は、人の気配すら残していない。元々生活感はあまり感じられなかったけれども、今はそれ自体が削ぎ落とされていた。家具はそのままであるというのが少々不気味である。
 しかし、これはもしかするとついに求めていた自由なのかもしれないと思い至った。彼が、臨也がようやく解放してくれたのではないかと、そう思ったのだ。
 正臣は思わず飛び上がりたくなった。もう、ここには来なくていいと、そう思うだけで息苦しい程に正臣を苛んでいた何かがするすると解けていく感じがする。
 とにかく、ここを出よう。日本では殆ど無い一足制のその部屋の玄関に向かい、電気を消した。それからドアを開けて、あ、と振り向く。けれども、そこには暗闇が広がっている事を思い出して、なんだか気恥ずかしくなりながらそそくさと部屋を出た。
 長い階段を一段ずつ降りる。いつもはエレベーターで一気に下まで降りてしまうのだけれど、なんだか今日はそんな気分だったのだ。一歩、また一歩と地上に近づいて行く。そして、それは勿論臨也の部屋からは離れていっているということで。それを自覚すると、何故だか足取りが少し重くなった気がした。
 一体、彼はどこに行ったのだろうか。正臣は相変わらず階段を踏みしめながら思考する。気まぐれで旅行か、それとも偵察か。いやでも、それならば多少のコーヒーのストックはある筈だろう。では、もしかして、また事件に巻き込まれたのだろうか。うん、こっちの方が有り得そうだ。などと考えれば考える程、歩みは遅くなって行く。
 事件だったら、どんな事だろうか。静雄さんだったら、きっと逃げる程ではないから、もっと危険な相手かもしれない。危険な。
 途端、足が動かなくなった。危険とは、一体なんであろうか。いつも平和島静雄という規格外の力を持つ人間と互角に闘う彼が逃げなければならない事態。何かをやらかしたのだろうか、それとも、またこの間みたいに夜に刺されたら……
 気がついたら正臣は今降りて来た階段を駆け上っていた。一段一段、昇っていたのが徐々に2段ずつに変更される。走って走ってとにかく駆け上って、元いた部屋の前に着いてしまった時には汗でパーカーが張り付き、息は切れていた。額の汗を拳で拭って、そのままドアに叩き付ける。
 せっかく、自由になったのに、もう彼はここに居ないのに、そう思うだけで、背負っていたものが軽くなるのに、どうして、ここに戻って来てしまうのだろうか。
 正臣は幾度かドアに拳を叩き込んで額をこすりつけた後、ははは、と嘲笑を浮かべた。

切っ掛けがあれば
(解き放たれたのは身体だけで)(いつの間にか奪われていた心は返してもらえていなかったようだ)



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