「え、今日、えっ……!?」
正臣は慌ててケータイのディスプレイを見る。
するとそこには6月19日、即ち自らの誕生日である事を意味する数字が並んでいた。
「ほんとに忘れてたのか。」
半ばあきれている静雄に対し正臣はただただ苦笑を浮かべながら必死に思考を逆戻りさせる。
珍しい手書きの文章。
覚めかけた手作りの食事。
昨夜の行為。
そして、あの人の笑顔。
「すいません、俺、ちょっと用事思い出しました!」
そして気がついたら正臣はこんなことを口走っていたのだ。
くるっと回れ右をして来た道を戻る。
後ろで静雄が何か言っているような気がしたが、気にしている余裕など無かった。
それから、がむしゃらに走り続けた。
ただ、ただ、かける。
人をかきわけすり抜け走る。走る。走る。
この時期暑いだろうに、未だにファーの付いた黒いジャンバーを着込んだ季節外れの上司、否、男を探すためだけに、ただただ駆けた。
けれど、彼は見つからない。
池袋の路地裏という路地裏をくまなく走り回ってバカみたいにキョロキョロと視線を走らせているのに、見つからないのだ。
このとき、正臣の思考はすでに停止していて、ケータイを使えばいい、なんてなんとも合理的な案は浮かびもしない。
ただ、ただ己の最大の武器である身体を使って、探し続けたのだ。
しかし、彼にだって限界は来る。
「はっ……やっぱ、体育は大切だっは、な……っケホッ」
急に動きすぎたせいで肺が痙攣を起こしているかのように震えて咳が出て呼吸を邪魔した。
正臣は息を整えようと路地裏の壁へと背をつけずるずると座り込む。
雨が降る中、ようやく思考停止状態から大分回復し、一体自分は何を無駄なことをしていたのだろうと自らの焦りに苦笑するほかなかった。
ポケットからケータイを取り出して、着信記録を呼び出せば一番上に鎮座する彼の名前を選択する。
それから耳に当ててすうっと息を整えると、遠くでプルプルと呼び出す音が聞こえてきた。
そして、昨日ぶりに聞く声。
「どうしたんだい正臣くん。シズちゃんと一緒にいるときに俺に電話をかけるだなんて、自ら死を選択しているようなものだよ」
飄々としたその言葉に、正臣はゆらりと立ち上がる。
そして、再び走り始めたのだ。
「臨也さん、」
「なんだい?」
「いま、どこにいますか。」
「新宿だけど」
「新宿のどこですか」
「あの、変な形のオブジェクトのある……」
「そこ、動かないでください。」
臨也の居場所を知った正臣は駅へと向かう。
汗だくで、本当は電車なんて乗りたくなかったけれど、それよりも一刻も早く新宿に着きたかった。
理由など分からない。
けれど、なぜか今すぐにいかなければならない気がしたのだ。
♂♀
案外すぐに付いた新宿駅。
そこから駆け出した正臣は、可愛い服を纏った可愛らしい女の子達にわき目も振らず、ただ一心に駆ける。
黒いコートを目指して、一心にかけたのだ。
さすればあのオブジェクトのふもとで、高校生のカップルに囲まれて一人立ち尽くす男を見つける。
さあ、ラストスパートだ。
そう思い正臣は最後の力を振り絞って彼に駆け寄ると、そのまま腹部にへと崩れて言ったのである。
「ぐっ、って……まさおみ、くん?」
抱きつかれた臨也は一瞬顔を歪めた後、驚いたと言わんばかりに目を見開くと正臣の頭に手を置いた。
「臨也さん、」
「……シズちゃんは?」
「静雄さんは、ほら、花束くれました。これ。……いや、そうじゃなくて、臨也さん」
名前を呼べば、慌てて宿敵の名前を出す臨也。
何を慌てることがあるのだろうか。
ただ、名を読んだだけであるのに。
そして、その続きを口に出したのだ。
「朝、一人のベッドは寒かったです」
「えっ」
「寒くて寒くて、思わず抱きしめて欲しいと思いました。」
「まさ」
「朝ごはんも、美味しかったけど、美味しくなかったです」
「どういう」
「一人で食べるご飯は味気なくて、誰かが欲しいと思いました。」
臨也の胸板に頭を擦り付けながら言葉を紡ぐ。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、死にそうになりながらも、今、言わなければならないと思ったから、正臣はその赤い耳を、震える声を必死にかくして。
「静雄さんに会った時も、なんだか少し違ったんです。何かが足りなくて、何かが違って。誕生日おめでとうの言葉も、嬉しいのに素直に喜べなくて。」
臨也に入らせる間など作らずに、ただただ押し付けるような言葉を並べ立てたのだ。
ドクン、ドクン、と体中が心臓になったかのように熱くて、苦しくてどうにかなってしまいそうだったが、耳からかすかに聞こえてくる臨也の心臓だって、同じくらい大きくなってて少し安心する。
それからすうっと息を吸うと、正臣は最後の言葉を口にしたのだ。
「俺は、気づいたんです。築いてしまった。あんたが、必要なんだって。」
気づきたくなかったのに。その言葉は声になることはなかった。
なぜなら正臣の身体は肺の空気が全部抜けてしまうのではないかと思うほどにきつくきつく抱きしめられていたからである。
「正臣くんっ」
臨也の余裕のない声が耳を満たしていく。
セックスの時よりもよっぽどかすれていて、よっぽど余裕がないその声に正臣は苦笑した。
「おれ、まだあんたから聞いてません。あんたからしか、この言葉だって要らないんです。まさか今日が何の日か、知らないなんていわせない」
それから、胸板に押し付けていた顔を少し上げて肩口に擦りつけ、臨也の耳に届くように言葉を流し込めば、彼はふふふ、と少し照れたような笑いを零す。
「お誕生日おめでとう、正臣くん。愛してるよ。」
こちらも正臣にだけ聞こえるようにと囁き、それから一言付け足したのだ。
「俺がもし花束をあげるなら、君に999本の赤いバラの蕾と一本の青いバラをあげるだろうね。」
1000本目の祝福
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