つとめて

月曜日の早朝。冬休みはとうに明けたというのにとても冷える朝だった。校内の花壇に水をやるのが帰宅部の私に与えられた美化委員の役割で、今日も寒さに震えながら蛇口をひねってジョウロに水を溜める。少しの間でも素手を外に晒したくない私は、袖に指先を引っ込めて、屈んで足を抱えたままジョウロに水が溜まるのをずっと眺めていた。すると私の背後から、ジャリジャリと校庭の土を蹴ってこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。ああ、きっと彼だろう。毎朝この時間に顔を合わせるのでもうすっかり覚えてしまった。

「おはよう、御堂筋くん」
「……お早う」

御堂筋翔くん。クラスは違うが私と同じ学年だ。一限目の授業開始時刻までまだ随分と時間があるのに、彼は毎朝決まってこの水道のすぐ隣にある自転車競技部の部室前に現れる。その容姿と雰囲気からしてどうにも近寄り難い印象だったが、ある日を境に短い会話を挟むようになった。


――それは彼の平たく潰れた鞄から、分厚いテープのようなものが転がり落ちてきたときの事。本人はそれに気付いていないようだったので、ほんの良心で拾ってあげると彼は「おおきに」とボソリと呟いた。それを聞いて、なんだきちんとお礼が言える普通の人間じゃないかと、今まで偏見を持っていた自分を心の中で恥じたのがきっかけだった。

風が強い日も、今日みたく冷え込む冬の日も、御堂筋くんは決まって一人で部室に現れる。花壇の水やりのために早起きをしている私もなかなかの努力家だと自負していたが、彼はまた格別だった。雨の日はさすがに花に水をやる必要もないので私の仕事はなくなるのだが、ほんの気まぐれで早めに登校したことがあった。
この雨の中、私の視界の遠くのほうで御堂筋くんが部室から出てくるのを見た。…まさか今日も早朝から練習していたのだろうか。傘も差さずに校舎へ向かおうとする彼に、自分が差していた傘を差し伸べると小さくまたお礼を言われたような気がした――。



「毎日えらいね」
「……キミィもやろ」

それからほとんど毎朝、彼と話すようになった。彼も私も大声で騒ぐほうではなかったので小鳥のさえずりさえ響くような静かな会話だが、私はこのゆっくり流れる朝のひと時が好きだった。制服姿の御堂筋くんは目立たない色のネックウォーマーで口元を隠していて、外気に晒されている鼻頭が寒さで赤くなっていた。
「それに、今日はメンテナンスだけや」そう独り言のように呟いてさっさと部室に入ってしまったかと思えば、またすぐに出てきた。私の視界に入る位置で何やら自転車を弄り始めた彼を見て、寒いだろうに何故室内でしないのだろうかと疑問に思ったが、きっと素人の私には分かり得ない理由があるのだろうとすっかり水の溜まっていたジョウロを手に取った。

水やりをしなければならない花壇の半分も終えずに、膝を抱えて縮こまっている御堂筋くんのほうを盗み見た。黒い薄手の手袋ではとても手先が冷たそうだ。ジョウロを地面に置いたまま彼の背後に近寄ると、私の影に気付いた御堂筋くんは黒目だけをこちらに向けた。

「中腰きつくない?」
「……別に、平気や」

もごもごとネックウォーマーに声が吸い込まれて聞き取るのがやっとだった。私も彼の隣に並ぶようにして腰を下ろすと、地面の砂をジャリジャリと蹴る音が二人分。予想よりも距離が近すぎたのか、私ともう少し距離をとろうと離れられてしまったのだ。ああごめん近すぎたねと苦笑して謝ると、御堂筋くんはただ「別に」と言ったきり小さな部品を指で転がしていた。

「自転車をきれいにしているの?」
「……、ずぅっと走ってると、汚れてまう」
「大事にしているんだね」

私のひょんな問いかけには無言で頷いた。細かい作業をしているのその手先をしばらく見つめてから、次第に目線を御堂筋くんのその大きな目に移すと、一瞬ぱっちりと目が合った。口元が隠れたままの彼の表情は窺えないが、途端に部品を地べたに落としてしまったあたり、焦っているようにも見えた。さっきよりも真っ赤になった耳がとても寒そうだ。

「……今度」
「え?ごめん、何て言った?」

風の音にすら負けた御堂筋くんの小さな声は私の耳には届かなくて、聞き返そうと顔を近付けた。なかなか言い直そうとしない彼の顔を、恐る恐る覗き込んで見てみる。すると指でネックウォーマーをずらして口元を表に出すと、確かに「今度」と発した。今までネックウォーマーのせいで自分の息が篭っていたからか、唇が潤っている。

「……レース、あんのや」
「えっそうなんだ!それは頑張ってね。応援してるよ」
「そんなんいらん」

その思わぬ返しに耳を疑ったが、しっかりとした口調から聞き間違いではなさそうだ。レースがあることを教えてくれたのは、鼓舞してほしかったからではなかったのか。驚いていると御堂筋くんはまた言葉を続けた。

「京都であるんや……そんな遠ない。せやから、来たらええわ」
「私が?レースを見に行ってもいいの?」
「……、イヤなら止めと」
「行く!」

私の問いかけに、一瞬ばつの悪そうな顔をした御堂筋くんが、その表情を隠すように再びネックウォーマーで口元を隠した。次に発した私の「行く」の声に、その目が大きく揺れる。どこであるのか聞くと私が知らない場所だった。彼は近くに転がっていた木の枝に手を伸ばすと、カリカリと地面に地図を描いて簡単に説明してくれた。ありがとう、と笑顔を向けるとふいっと顔を逸らされてしまう。……御堂筋くんって意外と照れ屋さんなのかもしれない。

「ほんまに来るん」
「行くよ。……あれ?もしかして信じてない?」
「……別ぅに。キミがしょーもない嘘つくとは思ってへんけど」

彼は木の枝を地面で遊ばせながらそう言った。半信半疑、というところだろうか。私は良いことを思いついたと言わんばかりに、御堂筋くん!と声を少し上ずらせて呼んだ。私が彼の前で発した中で、多分一番大きな声に彼はのけぞっていた。

「はい!」
「……なんやのその手は」
「指切りだよ。私、絶対応援に行くから」

御堂筋くんの口から「ピ」と機械のような声がした。黒目がちのその目は右下と左上あたりを行ったり来たり。ほら、と立てた小指を突き出して催促すると、彼は遠慮がちに右手の指を差し出してきた。黒い手袋の上からその長い小指を捕まえる。

「――指切った。ふふ、楽しみだなぁ。私、現地でスポーツ観戦するのは初めてだから」

御堂筋くんの真正面でしゃがみ込んだまま、自然と体が前後に揺れる。差し入れとか持って行ったほうがいいのかな、なんて浮かれて聞いてみると、御堂筋くんはまるで自身の顔を隠すように、ついに目の上までネックウォーマーを伸ばしていた。「いらん、そんなんいらん」ただそう言って、折りたたんだ脚の隙間に顔を埋めている。ネックウォーマーを目の上まで伸ばしたせいで、露になった首が真っ赤になっているのを見て、本当は暑いのではと心の中で疑った。


20150117


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