段階フェイズ5. 幸福論

「おはよう御堂筋くん!」
「……」

自転車部の見学に行った次の日の朝。奇遇にも教室に入る前に下駄箱で御堂筋くんとはち合わせた。もちろん元気にかました挨拶の返事は返ってこない。それでも今までと少し変化が見られたと感じたのは、私の目をちらりと見てくれたこと。相変わらず言葉一つ発しないのだけれど、何だかそれだけで私は彼と朝の挨拶を交わした気になっていた。

「学校にもあの自転車で登校しているの?」
「…」
「あ、違うんだ。じゃあ歩きかな?」
「…ボク、何も言うてへんけど」

教室に向かうまで御堂筋くんの横をなんとかキープしながら会話をする。いつも隣りの席同士、座ったまま話しかけることが大半なのでこうやって横に並んでみると身長差をあらためて実感した。身長が違えば当然脚の長さも違うわけで、彼の歩幅に合わせると早歩きになってしまう。

「御堂筋くんって身長高いね。何センチ?」
「…」
「な、ん、セ、ン、チ」
「185」
「でかっ」

口をあんぐり開けてお手本のようなリアクションをとると、御堂筋くんは前を向いたまま目を細めてうざったそうな表情をした。それでも黙って一緒に廊下を歩いてくれるあたり、やっぱり悪い人ではないのでは。真っ黒な学ランのせいでぐっと大きく見えるその曲がった背中をじろじろと穴が空くほど見つめていた。

教室に入って鞄を机上に置くと、来て早々だけどトイレに行こうと手ぶらで廊下へ出た。開放されたままのドアを抜けるとそこには昨日、道案内をしてくれた野球部の男子がたむろっていた。おはようと朝の挨拶をすると同じように返してくれる。きっと当たり前のことなのだろうが、私の朝一の挨拶はあの御堂筋くんに捧げてしまったので、返事がすぐ返ってきたことにさえ感動した。

「昨日、大丈夫やったんか?」
「え?何が?」
「…ほら、練習見に行ってんやろ?市川、どやされたんちゃうかなぁ思て」

その言葉の意味が分からずに首を傾げていると男子は小声で御堂筋が、と囁いた。彼が一体何だというのだろう。その名前を聞き逃さずにもう一度聞き出すと二言目には根も葉もない噂が飛び出してきた。
部員に暴力を奮って恐喝しているとか、それがあって三年間常に部のエースだとか。険しい表情で話してくる同級生には悪いが、私は真剣になってその話を聞く気にはなれなかった。

「…そんな事はしてなかったよ」
「いや、見てないだけで裏ではヤバイらしいで。噂ではな…」
「あんた達が噂にしてるんでしょ」

とうに聞く気はなくなっていたのに彼らはまだ話を続けようとしたので、少し口調がキツくなってしまった。ただ腹が立ったのだ。事実かどうかも分からない他人の陰口を叩くなんて、私はそんな狡い事をする彼らが許せなかった。

「噂話なら聞かない」
「…オレは市川の心配をしてやなぁ」
「いらない心配かけてごめんね」

言葉に少しのトゲを含んだまま淡々と返答すると、噂を話し始めたほうの彼は子どものように拗ねた表情をして去っていった。「ほんまに気ぃつけや」もう片方の彼もそう言って去り際に眉間にしわを寄せたが、私の腹部あたりに残った黒くモヤモヤとしたものは暫く消えなかった。

思い出したようにトイレに向かったあと再び教室に戻ると、御堂筋くんの姿が見当たらなかった。私は席についたものの彼の行方が気になったので辺りを見渡して探していると、後方のドアをからからと覇気なく開けて入ってきた御堂筋くんを見つけて「あ」と声を上げてしまった。

「どこに行ってたの?」
「…」
「御堂筋くんもトイレ?」
「…キミィはストーカーなん」

この時はさすがの私でも、言葉に出した瞬間ああ言わなければよかったと後悔した。今の自分はかなり鬱陶しいだろう。それでも御堂筋くんが無視せず減らず口を叩いてきたことにホッとしたし、その返事からして私の言ったことが的を得ていた事にも少し驚いた。
御堂筋くん、と意味なく名前を呼んでみるとやはり簡単には返事をくれなかった。私は構わず続けて話し始めると、相変わらず目は合わないけれどちゃんと話は聞いてくれているようだった。

「悪者は私が排除しておいたからね」
「…」
「御堂筋くんは正義だよ」
「…。ボクゥのどこが正義、なん」

小さい声でもハッキリとそう言った。…どこが、と聞かれるとこれといった証拠はないのだけれど。無責任な自分の発言のせいで返答に困っていると、御堂筋くんは真っ黒な瞳だけこちらに向けて今度は先ほどより声を張って言った。

「何にも知らんくせに」

怒っている様子ではなかった。無表情のまま私と目を確かに合わせてそう言った。そう言われてしまえばそうだ、私はまだ彼のことを何も知らない。一瞬だけピントが合っていた彼の瞳は気付けばもう逸らされていて、私の目は彼の向こう側の窓を捕らえていた。ぼんやりと朝日が反射する窓を眺めながら、私はまた御堂筋くん、と彼の名を呟くように呼んだ。

「人生は直感だよ」

結局100パーセント信じられるのは自分だけ。その自分の直感が彼に惹きつけられているのだから、私はそれに素直に従っているだけなのだ。いくら考えても分からないことなんて全て直感に任せてしまえばいい。人生なんてちょっと大それたことを語ってしまったが、それが私の直感だった。

「私の直感がキミを応援しているんだ」

ただそれだけだよと付け加えて微笑むと、御堂筋くんは頬杖をついた顔を窓のほうへ向けてしまった。それから小さい小さい声で呟いた言葉までは私の耳には届かなかった。


150104



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