初心を忘れないで



翔君から逃げるように、揺れるスカートの裾なんて気にも留めないで急いで階段を駆け下りた。必死になりすぎて視界が狭まって、途中見知らぬ人に肩をぶつけてしまった。痛い、なんて少し怒った様な声色すら振り切る。ごめんなさい。心の中で謝ってもこの足はずっと止めなかった。割とひと気の少ない女子トイレに駆け込んでは、突っ立ってしばらく息を整える。人差し指で目元を拭ってみると、涙はすっかり乾いていた。

翔君の前で泣いたのはこれで二回目。
最初の一回は、あたしが前の恋人に振られた時。あたしの元気がない理由とか、引きつってたであろう笑顔とか、そういうのが何もかも翔君に見抜かれていた。翔君は頭が切れるし、とても鋭い。でも二回目は、さすがの翔君でも多分何の事かさっぱりわからないまま…だったと思う。本当に、我ながら面倒くさい女だ。なんで、ほんの少しの間泣くのを堪えられなかったんやろ。泣くべきではなかった。理由が言えないなら、尚更。

翔君の事をよく考えれば、彼の夢は想像できたはず。いつだってロードに前向きで、一生懸命で…というより翔君の場合は一心不乱というべきか。とにかくそんな翔君があたしは大好きだ。大好き、なはずなのに。

「翔君と離れる、のが悲しい」

声に出すとその事実が脳の中へとダイレクトに伝わってきた。今は女子トイレに一人。ぽろぽろと、我慢する必要のなくなった涙が流れてそのまま顎を伝い上靴の上に落ちて染み込んだ。
翔君の事を応援しなきゃいけない。ただあたしの浮ついた我儘のせいで、翔君の邪魔をしてはいけない。そうは分かっていても、今だけは涙が止まらなかった。


「なんやボクぅが虐めたみたいやん」
「!…あ、翔君!?」
「名前ちゃんはほんまよう泣くなぁ。涙腺壊れてんのちゃう」

振り返ると、入り口の戸の隙間から横向きに顔だけを覗かせている翔君がいた。なんで分かったの?ここ女子トイレだよ?そう言うと階段の手すりの吹き抜けから真下が見えたそうで。あたしが階段近くにあるトイレに入っていくのもはっきりと見えたらしい。

「…女子トイレ、覗いたらだめだよ」
「名前ちゃんがおらんやったら覗かんわ」

ベロォッと長い舌を出して翔君は言った。なんで泣いてるん。黒目がちの大きな目と視線が合えば、ここは降参して正直に話すしかないと翔君に近付いて場所を変えた。


「世界のロードレースに出るってことは、いずれは日本を出るってことだよね」
「せやね」
「高校卒業したら、留学するの?」
「…せやね」

風当たりの良い渡り廊下。翔君は短い前髪を揺らしながら、まだ決まったわけちゃうけどと珍しく曖昧な言葉を付け足したが、やはり翔君の将来像というものは形になっているんだと確信した。


「あたしの夢はね、翔君とずっと一緒にいることなんよね」


本心だけど、やっぱりちょっと照れ臭くて、髪を掻き上げたその手を頬に当てたまま目を合わせないままでいると、横でファ、とかハ?とかやけに驚いたような声がした。

「…ようそんな恥ずかしいこと言えるわ」
「ふふ、本当のことだもん」

そうは言ってもあたしも恥ずかしいもので、横で翔君がどんな表情しているのかは伺えなかった。

「だから、翔君の夢が叶ったら、あたしの夢が叶わなくなるんよ」
「…ファー?なんでなん」
「なんでって、離れ離れになっちゃうでしょ」

そこでやっと翔君のほうを見ると、まるで理解できないと言わんばかりに小首を傾げていた。理解できない翔君が、あたしは理解できない。つられてあたしも首を少し傾けた。

「別ぅに留学一年くらい大したことないやろ。なんなら名前ちゃんが着いてきたらエエよ、そんなにボクと離れたないんやったら」

上から顔を近付けてくると、やたらと意地の悪い顔をされた。なんだか恥ずかしくて翔君を突き放して、火照った顔が冷めるのを待つ。そんなあたしを見て、プププと嘲笑する翔君を睨み上げる。

「ボクぅはたかが一年くらいで名前ちゃんを嫌いになったりせんよ」

名前ちゃんはどうか分からへんけどね、と終いには煽られた。そんな、あたしだって翔君を嫌いになる自信は微塵もないけども、なにより翔君の描く将来像にあたしの存在もあることがとても嬉しい。思わず潤う目元を見て、翔君はどこか焦った様子だった。その姿が愛しくて、駆け寄っては大胆にも真正面から抱き締める。線が細くて、意外と筋肉質の硬い身体を、力込めて。

「ッ!は、離れや!キモッ」
「翔君大好き」

そのまま引っ付いたままで、しばらくして目線だけ上げると、まだ冷めてない翔君の真っ赤な耳だけが目に映った。涙を吸い込んだ上靴も、外の空気ですっかり乾いていた。


140729



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