第8話

私はつい先ほどからなかなか今日の洋服を決められずにいた。ひょんなことから石垣さんと辻さんとランチに行くことになったのだ。今から、すぐに。

―日曜日の朝。暖かい日差しが気持ちよかったのでベランダに布団を干して、それから部屋で掃除機をかけていた。一息ついていると、スマートフォンで設定した目覚ましがうるさく鳴って私は一人肩をビクつかせた。わかったわかった、と何の意味もない返事をしながら駆け寄って止めると、いつの間にか石垣さんからの着信があったようで、私は喜ぶ間もなく慌てて折り返しの電話をかける。

「す、すいません石垣さん!今気付きました!」
「っはは!ええよ。おはよう苗字さん」
「おはようございます!」

申し訳なくて電話越しにでも頭を下げてしまった。すると石垣さんの笑い声が受話器の向こうから聞こえてきてそれだけで私の口元は緩む。声が近い。私はどうも落ち着かずに台所辺りをうろつきながら会話を続けた。

「今から辻と飯食いに行くんやけど、苗字さんもどうかなぁ思って」
「行きます」
「えらい速かったなぁ。ほな今から辻ん家に向かって、それから苗字さん迎えに行くわ」

悩む暇もなく返答すると石垣さんはおかしそうに笑っていた。迎えに行くとの言葉にひるんで一瞬断ろうとしたが、よくよく考えるとその必要もない。すると次に私の家はどこかと尋ねられたので辻さんと同じアパートだと答えるととても驚いていていた。

電話を切ると私は素早く支度に取り掛かる。あと三十分の猶予があるみたいだがぎりぎりだ。歯を磨いて化粧をして髪を整えて、最後に何を着て行こうかと洋服をベッドの上に並べる。せっかく掃除機をかけたというのにこの短時間でまた散らかってしまった。
ちょっとそこまでご飯を食べに行くだけだ、そんなに気合を入れるまでもないだろうとやや控えめのものを選んだが、私の頭の中にあるのはこの服が石垣さんの好みであるかないか、ただそれだけだった。


ようやく支度ができたので家の戸締りをして一階まで急ぎ足で降りた。すると駐車場にはエンジンがかかったままの白い車が一台。恐る恐る運転席を覗いてみると車中には電話をしている石垣さんが乗っていた。石垣さんは私の存在に気付くと途端に笑顔になって運転席の窓を開けてくれた。

「ええよ、気にしなや。…おお、またな」
「こんにちは、石垣さん」

通話が終わったのを見計らって少し上体を屈めて挨拶をすると、石垣さんは顔を少し車外に出して挨拶を返してくれた。

「辻な、今日は急用で来れんらしいわ」
「え、そうなんですか?」
「んー会社の後輩がやらかしてもうたみたいで、今から会社行くんやて」
「うっ…気の毒ですね、日曜日なのに」

辻さんに同情しながら、じゃあ…とこのまま約束を取りやめにして解散するつもりでいると、石垣さんが「とりあえず乗り」と乗車を催促してきた。まさか、予定を決行する気なのだろうか?このまま二人で。私は驚いて自分の顔の前で手をブンブン振ると「え、行かへんの?」と彼もまた驚いた様子だった。
先輩の…それも石垣さんのお誘いを断るほど私は擦れた後輩ではない。寧ろ二人きりでいられる絶好のチャンスではないか。お言葉に甘えて助手席のドアを開けて座席に座ると新車か芳香剤か何かのいい匂いがする。その香りすらも私の緊張に拍車をかけて、どうにも落ち着かなかった私は胸の前にきたシートベルトを両手で弄ってこの緊張を紛らわそうとした。

「苗字さん、何か食べたいもんある?」
「い…石垣さんが食べたいです」
「お、オレ?」
「っ?!じゃなくて、石垣さんの食べたいものが…!」

食べたいです、そう言って両手で自分の顔を覆った。我ながら何という言い間違いをしてしまったのだろう。ああもう今すぐにこの窓ガラスを叩き割って逃げ出したい気分だが、それは石垣さんに迷惑がかかるのでやめた。
彼の前で失態を晒すのはこれが初めてではないが、ろくに言葉も発せられずただもじもじとしていると、石垣さんが蕎麦屋に行こうと提案してくれたので私は二三度、首を縦に振って賛同した。

お蕎麦屋さん。想像はしていたがいざ店に着くと予想以上に雰囲気の良い外観で、瞬時にお財布の心配が頭を過ぎる。そんな冷静さも束の間、車を降りた石垣さんの後を大人しくついて行く時にあらためて彼の立ち姿に目を惹かれた。
私服の石垣さん…新鮮だ。シンプルな洋服だからこそ彼の整った顔立ちをさらに引き立てている。そんな石垣さんと私は今デートしているんだ。白昼に、私服同士で。ひょっとすると周りからはカップルに見られているかもしれない。そう考えるだけで嬉しくて気恥ずかしくて、店に入るまでの少しの間うつむいて綻ぶ顔を隠した。

「二人です」

店員にスマートに受け答えする石垣さん。ふたりの響きが耳に余韻として残った。しかし店の奥へと進む石垣さんとついて行く私との間には絶妙な距離があって、どうにかしてこの距離を縮める事は出来ないものかと心の中で願った。

「ここの蕎麦めっちゃ美味しいんやで」
「へー!そうなんですか!石垣さんは何を頼まれます?」
「オレはこれ。あったかい方にするわ」
「じゃあ私もこれでお願いします」

店員が一礼して去っていくと対面している石垣さんとダイレクトに目が合ってしまって、私は思わず照れ笑いを浮かべた。こんな時でも彼は照れる様子もなくその眩しいくらいの笑顔で自然な会話に持っていってしまうから、コミニュケーション能力が素晴らしい人だとつくづく思う。

注文したお蕎麦がくると手を合わせて控えめに麺をすする。ずるずると音を立てて食べるのに恥ずかしさを覚えてなかなか本調子で食事ができない。すると石垣さんは「どうや?」と私に味の感想を聞いてきたところでハッと我に返ることができた。

「すごく美味しいです!このお出汁が最高ですね」
「せやろ!…蕎麦はなぁ、音立ててすするのがツウてもんや」

そう言うと石垣さんは勢いよく蕎麦をすすっては美味いと一言、目尻にしわを寄せた。彼なら食レポも上手いことやってのけそうな気がする。私はふふと微笑んでさっきよりは勇気を出して麺をすすった。うん、とても美味しい。完食してご馳走様の合図をしようとしていると、石垣さんが最後のスープを飲み干していたので私も同じように真似てみた。…まるで彼女のように。


「会計、一緒でお願いします」
「あ。おいくらですかね」
「ええって、ここはオレが出すわ」
「い、いや!そんな悪いです」
「誘ったのはオレなんやから」

な?と爽やかスマイルで言い聞かされては大人しく財布を下げるしかなかった。ご馳走様でした、と頭も下げると石垣さんはやっぱり笑顔で「どういたしまして」と柔らかく答えてくれた。こんなに完璧な人を好きでいてもいいのだろうか。店を出て再び車に乗り込むと、もうあとは帰るだけかと気分が落ち込む。当然今の私にはもう少し一緒に居たいなんてわがままは言う権利はなくて、彼の隣りにじっと座って運転を任せるしかなかった。

「ほな帰るか」

その言葉に返事をすると互いにシートベルトを締めるタイミングが重なって、一瞬石垣さんの手が触れた。指がかすれる程度。それだけなのに私の心臓は大きく跳ねた。恐る恐る彼の表情を窺ってみても、ちっとも動揺なんてしていない。こんなに近くにいるのになんだか私の事は石垣さんの目には映っていないようで少し切なくなった。

それでも車中の会話はとても楽しかった。やっぱり仕事場が一緒となると一度は仕事の話になってしまうが、今日ぐらいは止めとこかとすぐに話題を変えてくれた。私にとってはそんなことでさえ優しい紳士に見えてしまうからもう救いようがない。


「今日はありがとうございました。ご馳走にもなってしまって」
「ええって!楽しかったわ」

楽しかった、その言葉が嬉しくて私もです!と思わず張り切って返してしまった。石垣さんの笑い声が私の心を満たす。私が車から降りると、石垣さんは車の窓を開けて運転席の方から「ほなな」と手を振ってくれた。窓が閉まる前にあの、と最後の最後で呼び止める。

「次は…私にご馳走させてください!」

バッグを両手で力いっぱい握りしめてどうにか次のデートの約束に持ち込んだ。石垣さんは断りもせずに「おお、なら甘えようかな」といたずらに笑うものだから、私の恋心は見事に打ち抜かれてしまった。


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