第3話

「え、まじで。急展開じゃん…っていうかどうしたのスーツびしょ濡れだよ」

吹きこぼれたジュースがスーツに飛び、ジャケットの裾の前部分が染みてしまった。すぐにトイレに駆け込み水で濡らしてみたけれど返って目立ってしまっている。私のハンカチはすでに水を吸い切っていたので綾ちゃんに頭を下げて貸してもらった。

「ありがとう。…あ、でもご飯の件はきっと本気じゃないと思う。その場凌ぎの社交辞令だって」
「えーつまんない」
「…綾ちゃん、完全に他人事でしょ」

ううん全然?と裏のある笑顔で返された。私だって少しの期待は抱いていたいけれど、その期待が外れてがっかりしないようにと自ら断ち切ることにしたのだ。だって素性の知れない異性の後輩にいきなりご飯に誘われて、普通はそんな簡単にオーケーを出すものじゃないでしょう。

そもそも連絡先を知らないので連絡を取る手段がない。あぁ、このまま石垣さんの中での私のイメージはきっと自販機ナンパ女で終わるんだろうか。ついさっきの出来事の一部を思い出しただけでも顔を覆いたくなる。羞恥でうっすら涙が浮かぶほど私の精神は持っていかれたのだった。

「近くで見るとさらに格好良かったよ、あれはモテる」
「んーモテそうだね」

別に、そういう感情はないんだけどね?と弁解すると綾ちゃんは「あ、そう」とわざとか否か興味なさげな返答をした。
…そう、石垣さんに恋愛感情があるわけではない。まだ出会ったばかりだしお互いに知らない事が多すぎるのだ。ただ、あんなにキレイに笑う男の人を私は初めてみた。裏がなく全てを許してくれそうな、そんな包容力のある笑顔。たったそれだけで私が彼に興味を抱く理由は十分だった。


「綾ちゃん、食堂に行こう」

仕事もある程度踏ん切りがついたし、手を止めて大きな深呼吸をした彼女を私は見逃さなかった。そうだね、とバッグの中をごそごそと漁って取り出したものは、少し重量のありそうな巾着袋。そう彼女は家庭的なオフィスレディだった。今日は何を作ってきたのと問うと「昨日の夜ご飯の残りを詰めてきただけだよ」と謙虚に返された。そうは言っても、綾ちゃんの作る弁当の見た目と栄養バランスの良さはここ二週間で把握済みだ。出社時間だって毎朝そう遅くはないのに、早起きして弁当を作るなんて本当に女性の鑑である。私も見習おうとすぐに思いついたのが、まだ引越しの片付けが済んでおらず部屋に出しっ放しのダンボールだった。…今日、家に帰ったら片付けてしまおう。この数分の間に私はそう決心した。

「まったく、食堂にも電子レンジ置いてくれないかな」
「弁当の人は事務所でだいたい食べるもんね。ごめんね」
「いや、別に名前を責めてるわけじゃなくてね?レンジを責めてんの」
「レンジに罪はないよ」

何このやり取り。わかんない。と二人して失笑した。綾ちゃんを待たせたら悪いと思い、一番空いているフライものにすることにした。ここの食堂はチキン南蛮が無難に美味しい。さっさと会計に並び財布を取り出せば、私の目の前に並んでいた見覚えのある男の人の横顔にハッとした。

「石垣さん!」
「おお、苗字さんや」

レジ打ちの人から笑顔で釣り銭をもらうと、石垣さんは私のほうを向いてお疲れさん、と声を掛けてくれた。何たる偶然だろうか。予期せぬ出来事に、危うく釣り銭をもらい損ねるところだった。

「席はもう取ってあるん?」
「はい、同期の女の子と一緒です」
「一緒してもええ?辻もおるんやけど」

そう言っていつの間にか彼の横にいた辻さんを親指で指して私に紹介してくれた。「辻や」と呟くように自己紹介をしてくれたところ悪いのだが、もう彼の名前は知っている。「苗字です」と深々と頭を下げると辻さんはふっと笑って、そんなに頭下げんでええよと言ってくれた。先輩に囲まれる緊張から少しギクシャクしていたので、そう柔らかく受け答えしてくれるだけで心持ちが変わる。

「あの、確かもう一人いらっしゃいましたよね」
「あー井原いうんやけど、アイツはな…」
「ちょっと取り込み中や。気にせんでええ」

二人して罰が悪そうに顔を見合わせるものだから、何か触れてはいけないことだったのだろうかとそれ以上は深く聞かないことにした。

石垣さんはこの間の口約束を覚えていてくれた。まさか本当にご飯を一緒に食べられるなんて、しかもこんなに早く叶うなんて、嬉しさのあまり運んでいたトレーへの意識が疎かになりお茶を少し溢してしまった。石垣さんに見られないように、こっそりとティッシュで拭き上げる。


「あ、名前おかえ…り」

綾ちゃんは私のほうを見て、すぐに石垣さん達の存在に気付いた。立ち上がって軽く会釈をすると、石垣さんは「そんなんええよ、急にすまんなぁ」と綾ちゃんに腰掛けるように促した。私は綾ちゃんの隣に座り、石垣さんは私の向かい側に座った。
何でどうしてと目で訴えてくる綾ちゃんに、私はごめんねと謝罪を込めて苦笑いを返した。



「そうかぁ、まだ研修中なんやな!その名札が懐かしいわ」
「営業部も研修があったんですね」
「あったで。基本的なこと全部一ヶ月のうちに叩き込まれたからなぁ」
「もう少しやな、頑張れよ」
「そや!辻は事務やから、分からん事とか聞いたらええなぁ」

やはり部課が同じほうが、より専門的な悩みは共有できるというわけだろう。お願いします、と軽く頭を下げると「まぁ、俺にできる範囲なら」とやや控えめに返された。


「もちろん、オレに聞いてくれてもええんやで」
「泣きついたら石やんも泣き出すから、それだけは止めときや」
「…っな、いつの話してんねん」
「実話なんですか?」
「ほんまやで」

恥ずかしそうにしている石垣さんには悪いが、おかしくてつい小さく笑ってしまった。意外に涙もろい一面があるのだろうか。目がまだ笑っているまま隣の綾ちゃんとふと視線が合うと、また別のニタリとしたいやらしい笑顔で返された。…後で色々と弁解をしなければいけないようだ。

冷めないうちに、とチキン南蛮の一切れ目に箸を運ぼうとしたところで私は今更ながらハッとした。…石垣さんと一緒にランチをするなら、ドリアとかもっと可愛らしいものを頼むんだった。石垣さんが「どうしたん?食べへんのか?」と不思議そうに見てくるので、私は何でもないですと返してその一切れ目を口に運んだ。



「ならオレら少し急ぐから、先に戻るわ」
「またな」
「はい!お疲れ様です」

綾ちゃんと揃って頭を下げた。時間に余裕がなかったのにお昼を一緒に過ごしてくれた事が嬉しくて、チキン南蛮を食べ終わってもまだ気分が良かった。

「私、明日から弁当作ってくる!」
「…頑張って」

両手を合わせて片付け始めた綾ちゃんを見て、私も急いで残っていたお茶を飲み干した。そもそもなぜ急にご飯を一緒に食べることになったのかと聞かれたので、偶然レジのところで出会した事とこれって運命かなとはしゃぎながら答えると、後者の発言はなかったことにされた。
その後、彼女からの「連絡先は聞かなくてよかったの?」の言葉に私は目と口を大きく開けることになる。


141107


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