第1話

研修初日から大雨だけは勘弁して欲しい。そんな願いが通じたのか、当日は時折爽やかな風が吹くとても天気に恵まれた日になった。悩みに悩んだ自分好みのスーツに腕を通し、玄関先の姿鏡の前で顔をキュッと引き締めて家を出る。行ってきます、と声に出しても誰からも返事は返ってこない。人生で初めての一人暮らしも同時に始まってしばらくはゆっくりする間もないだろうが、新生活の始まりに今日ばかりは心が踊って仕方なかった。

私が就いたのはとある企業の事務職。内定式で説明を受けたとおり、最初の1ヶ月は研修生として同期に囲まれて一緒に仕事を学ぶことになった。ほとんど何の準備もしないまま初日を迎えてしまい一時はどうなる事やらと思ったが、同じ状況に置かれている仲間が周りにいる安心感から、次第に緊張の糸はほぐれていった。

「苗字さん?よろしく」
「初めまして!…えっと」

健康診断の待ち時間に急に話しかけられた。慌てて相手の名札に目をやると、その人は「橘綾」とぶっきらぼうに答えてくれた。クールな微笑みと声からして姉御肌のような印象だ。そういえばこの人…橘さん、さっき上司に質問されてハキハキと答えていた人だ。どうやらこれから1ヶ月間、橘さんと同じグループで行動するらしい。早くも顔見知りが出来て、とりあえずは一人で昼食をとる心配もなくなった。


橘さんは千葉から来たらしい。昼休憩の間に私が質問責めをすると、いやな顔一つせずに淡々と答えてくれた。右も左も分からないこの状況で、休憩中にでも話し相手になってくれるだけで随分と心持ちが違う。こちらから話し掛ける分にはあまり積極的になれない方だから、橘さんが話しかけてくれて本当に助かった。会話が進むにつれて、第一印象よりもずっと話しやすくすぐに心を許してしまった。そういえば高校時代に仲が良かった友人も、どこか橘さんに似ているなと思いながら。

女同士の会話はなかなか途絶えないものだ。学生時代のことからこの企業に就いた理由からと話はテンポよく続いた。行き着く先はやはり恋愛の話で、互いに恋人がいないことが分かると手を取り合って励まし合った。

「社内恋愛なんて本当にあるのかなぁ。ちょっと憧れるよね」
「そう?上司に知られたら色々と面倒くさそうだけど」
「そこはきっと…上手くやるんだよ!今夜どう?のサインは砂糖入りコーヒーを手渡すとか」
「それ、昼ドラの見過ぎ」

笑い合って穏やかな空気が流れた。綾でいいよと言われたのでお言葉に甘えて「綾ちゃん」と呼ぶ事にした。私の事も名前で呼ぶように言えば綾ちゃんは口角を少し上げて、わかったと頷いてくれた。

「…うわーあの人イケメン」
「えっうそ、どこ……本当だ」

綾ちゃんが私の背後に目を向けたまま惚けているので思わずその目線の先を追うと、確かに顔の整った男の人がいた。オールバックがとても似合う好青年。隣にいる同僚らしき人と何やら楽しそうに会話をしている。2.0の視力をこの時は心から親と自分に感謝した。
あまりに目の保養になるものだから、そのまま暫くその端正な顔に見惚れているとバチリと確実に目が合った。思いがけない出来事。なかったことにする余裕もなく目を泳がせていると、その人は私に笑顔を向けていた。勘違いではない、確かに私と目が合っている。
…ふつう、見知らぬ人と目が合っただけで愛想よく笑顔を振りまくものだろうか。ここぞとばかりに大人の余裕を見せつけられ、未熟者の私は軽く会釈をして返すことで精一杯だった。

「ちょっと目つきが悪いけどそこがまた」
「そうかな?優しそうな人だと思うけど」
「…名前、アンタ誰のこと言ってんの?」
「え、あのオールバックの人のことでしょ?」

きょとんとして返すと、綾ちゃんは首を横に振った。…どうやら私の言うイケメンの隣にいた人の事だったらしい。ごめん、全然見てなかったわ。そうっと控えめにまた彼らのほうを振り向くと、背中を向けてどこかへと離れてしまっていた。

お昼の休憩が終わり、再び研修が始まる。研修中は大きなミスをしないようにと必死でさっきまでの浮かれた感情なんて微塵もなかった。あまり器用なほうではないから、綾ちゃんに何度も助けてもらった。

必死な時ってこうも早く時間が経つものだろうか。気付けばもう研修の定時を過ぎていて、周りの同期も大きく頭を下げて会社を後にする人がちらほらと出てきた。私もキリのいいところで切り上げるかと小さくため息をついた頃。

「…いません丸井さん、辻いてます?」

入り口のほうで男の人の声がした。すでに集中力の切れていた私は何となくその声主が気になって、ちらりと声のする方向に顔を向けた。…あ、お昼のオールバックの人だ。首から名札を下げているのを見ると、営業部の人だろうか。頭先から足元まできちんと整えられた彼はそれだけで印象の良いセールスマンである。

「辻くん、石垣くんが呼んでるで」
「…すいません、丸井さんを使うような事して」
「ええよ、今度一杯付き合うてくれるなら」
「是非!ご一緒させてください」

…石垣さんっていうんだ。すっかり耳を傾けていた私はオールバックイケメンの名前の情報を聞きだすことに成功した。しばらくすると石垣さんのほうに近付いていったのは少し顔色の悪い男の人。辻さんというらしい。もしかしてお昼に綾ちゃんが言っていた人って辻さんの事だったのだろうか。気付けば私は彼らが会話をしているのをじろじろと見つめて観察していた。

ふいにこちらを向いた石垣さんとまた目が合った。今日だけで二度も目が合うなんて、もしかして気があるのかもなんて石垣さんに思われてしまったら、恥ずかしいことこの上ない。慌てて手元の資料に意識を戻して片付けを始めた。後ろのほうで石垣さんの声が遠のいていく。そろそろどこかへ行ってしまっただろうか。私もバッグと車の鍵を持って席を立つと、部屋の入り口付近にまだ彼はいた。三度目、かすかに目が合う。今度は私が見つめていたわけではなく、石垣さんが申し訳なさそうに私を見ていた。

「すまんな」

声は聞こえなかった。離れていた距離で口パクできっとそう言ったんだと思うけれど、何を謝られたか一瞬わからなかった。…ひょっとして私がじろじろ見ていたのを、騒がしくて鬱陶しいからと勘違いしたのではないだろうか。そうだとするとそれは全くの誤解である。なんだか悪いことをした気分になりその日はずっと、どうやって謝ろうかと必死に考えを巡らせていた。


141021


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