第10話

 次の日の朝。昨夜のうちに食べ切れなくて保存しておいたりんごを冷蔵庫から出すと、黄色く変色して味も落ちていた。普段は朝からテレビは付けないのだが、この日はなんとなく気がのって一番視聴率の高い番組を選局した。電子レンジのトースター機能で食パンを焼いて、ヨーグルトとりんごと温かいミルクティーを食卓に並べる。何にもつけていない食パンにかじりついて流れっぱなしのニュースに目をやると、物騒な事件が報道されていた。都内で私と同じ年齢くらいの女性が刃物で切りつけられたらしい。恐ろしい、私も気をつけなければと頭の中で思ってみても、きっと数時間後には忘れてしまっているだろう。仕事のことで頭がいっぱいのはずだ。メディアを通じて知った程度の事件では、身の危険を感じるまでには至らなかった。

 私は朝食を完食すると、マグカップの底に残ったミルクティーをすすって流し台に運びいそいそと支度に取り掛かった。職場に合った髪型とメイク。これでも素早く済ませているつもりだが、入社したてという立場上は念入りに気を遣うのだった。

「綾ちゃんおはよー」
「名前。おはよ」

 綾ちゃんは、回転式のチェアーをくるりと反転させて私のほうを向いて挨拶を返してくれた。週始めということもあってか、彼女の表情は優れない。暗いというよりは不機嫌さを含んだもので、特に体調が悪いわけではなさそうだ。それに不機嫌といっても他の人が見ても分からない程度である。きっと親しい私だから窺える表情だ。相方の小さな心情の変化に気付けた私は彼女とは裏腹に気分が上がり、仕事に対してもやる気がこみ上げてきた。

「苗字さん。悪いけどこれ、コピーをお願いしてもいいかしら」
「はい、わかりました」

 任せてください、と調子づいてつい口に出しそうになるのを慌てて堪える。手渡された大量の資料の重みにとっさに「うっ」と低い声が出た。……山積みの資料が壁になって先輩に聞こえてないといいけれど。
 コピーといっても倍率や用紙サイズの調整をすればあとはコピー機が仕事をしてくれる。終わればホチキスでまとめる作業もあるけれど、今はこの複写が終わるまで、手は動かしながらも心ここにあらずで物思いに耽っていた。

 今日はお弁当を作ってきていないから社員食堂を利用するつもりだ。メニューは何にしよう。数時間後の昼食の心配をしたところで、ふと頭を過ぎたのは石垣さんの顔だった。……こんなわずかな時間にでも、会いたいなぁ、話したいなぁと漠然に願ってしまう。今の私の状態をきっと恋に恋しているというのだろう。仕事中に浮かれた気持ちをしてはいけないとは分かっていても、彼のあの太陽のような笑顔が私の脳裏に焼き付いて離れなかった。

「…さん、名前さん!これ多すぎよ!」
「――あ」

 先輩の声がやっと届いたところで慌てて中止ボタンを押しても遅かった。ロスした用紙は数十枚。枚数の設定ミスだ。先輩は私が気を緩めている様子を目撃していたこともあって「何をしているの!」と叱咤した。当たり前だ、少し考えたら防げた初歩的なミスなのだから。私は瞬時に申し訳ありませんと深々と頭を下げた。コピー機に触れていた左手を急におろした反動で用紙が数枚、地べたに落ちた。

「そんなに難しいことかしら」

 言い返す言葉もなく、私は蚊の鳴くようにか細い声でいいえと答えた。大失態だ。もう一度謝罪を述べると先輩はそれ以上咎めることなく「ロスした紙は一応取っておきなさい」とアドバイスをくれた。その優しさがより自分の失敗を悔やませた。



「名前ーご飯食べ……って、大丈夫?」
「あぁ、綾ちゃん。今日は私食堂なんだけどいいかな?」

 自分でも酷く落ち込んだ低い声だと思った。問うと綾ちゃんは首を上下に激しく振り、盛大なため息をついた私の顔を覗き見て心配をしてくれた。


「――え、じゃあさっき北村さんに怒鳴られてたのって名前だったんだ」
「うん……綾ちゃん気付かなかったの?結構注目浴びてたと思ったんだけど……」
「経費の打ち込みに夢中だったわ」
「……綾ちゃんの集中力を分けてください」

 早くも彼女の前で二度目のため息をつくと、まぁそんな事もあるよと控えめに慰めてくれた。こんなミスで怒られることが情けない。そう言うと綾ちゃんは「それはそうかもしれないけど」と否定はしなかった。彼女もそう思っていたはずだ。てっきり石垣さんのことを考えていることもバレてしまっていると踏んでいたが……ひょっとして、うな垂れて食事をするほど落ち込んでいる私を見て、言わないでいてくれたのかもしれない。

 昼休憩を終えて午後からの仕事を再開した。大きなミスこそしなかったが、私は心の中では午前中の失敗にずっと執着していた。実は昔からこういう性格である。一度失敗をするとその一日はほぼ引きずってしまう。逆に言えば、寝て次の日の朝を迎えさえすればすっかり立ち直ることが出来るのだけれど。今はひたすら、胸の奥あたりに薄黒いもやが立ち込めているような感覚が続いた。



「じゃあお先ー。お疲れさん」
「うん、綾ちゃんお疲れ様ー」

 自席を立ち上がった綾ちゃんのほうに笑顔を向けると、すぐにパソコンの画面に目線を戻した。少し間をおいて、そんな私の頭を後ろからポンポンと軽く手を乗せるようにしてくれた彼女の無言の激励は、私の胸を熱くさせた。必要以上に相手の心に踏み入らずして「がんばってね」を伝えられる彼女の気遣い能力といったら半端なくレベルが高い。

 今日の業務が終わった。ふうっと深く息を吸い込んで椅子の背もたれに体重を預けるとキィッと音が鳴る。そこで、お世話になってしまった北村さんが背後を通りすがって「お疲れ様」と声を掛けてくれた。私は慌てて背筋をピンと伸ばしてお疲れ様です、と返すと先輩の横顔は薄っすら笑顔を含んでいた。いい先輩に恵まれた。


 会社を出たところで背後から声を掛けられた。私の大好きな人の声だ。私の苗字にさんを付けて呼ばれるだけで、今日一日の疲れが吹き飛びそうなほど歓喜した。

「お疲れ様です、石垣さん!」
「お、なんやええ事でもあったん?めっちゃ笑顔やん」

 あなたのせいです、と心の中で返事した。本当のところはその真逆、仕事で失敗してしまったというのに。私はなんて返そうか言葉に迷っていると、石垣さんは口をつぐむったまま小首を傾げた。私よりも二つ上の先輩、背も私より高いのにその仕草がとても可愛らしいと思ってしまった。

「い、いや何でもないんです。……石垣さんも今帰りですか?」
「おお、時間も時間やし、何か食べて帰ろう思ってなぁ」
「お一人ですか?」

 つい噛み付くように聞いてしまった。石垣さんは笑って頷いた。いける!食事は一人よりも誰かと一緒のほうが良いに決まっている。石垣さんも例外ではないはずだ。私は一息つく間もなく勢いよく食事に誘った。

「ほんま?!嬉しいなぁ。実は今日は一人で飯食う気分やなかってん。この時間やしそこらへんの居酒屋でもええ?」
「はい!もちろんです」

 元気よく返事をすると、石垣さんと一緒に居酒屋へ向かった。ここから徒歩で10分もかからない所に美味しい焼き鳥屋があるらしい。あなたと一緒にいられるならどこでもいい。石垣さんの隣で肩を並べてそう思いながら、今日一日の落ち込み気分が嘘のように、私の感情バロメーターは優に頂点へ達していた。


150203


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