五、

婚約を破棄してから早一週間が経とうとしていた。尽八くんのあの表情をつい昨日の出来事かのように思い出す。当然母だけでなく父からも責め立てられ、私はただ頭を下げるばかりだったが言い訳の一つもする気はなかった。しかし家族から少々突き放されたのも最初の二日間だけ。聞くと、どうやら尽八くんから一本の電話をもらったらしい。

「オレのせいで名前さんを傷付けてしまった」
「どうか彼女を責めないでほしい」

内容はどれも私を庇うものだった。その事を聞いて私は更に自分の不甲斐なさを悔やんだ。あの人は優しすぎる。尽八くんは何も悪くないのに、最後まで私をフォローしてくれた。やはりそうだ、私には不釣り合いすぎたのだ。少々自己愛の激しい王子様と、ただ家柄がいいだけの捻くれ娘は元から縁がなかっただけの事である。

ハァと大きく、誰にも見られないようため息をついては愚かな自分を嘲笑する。一つ白状すれば、私は東堂尽八に惚れていた。あの人と会話を交わした日数は多分両手で収まる程度。初対面の私ときたら、警戒心と無関心そのもので面と向かって向き合おうとはしなかったが、彼の内面や意外性を知るうちに次第に惹かれていったのは事実である。東堂尽八は素晴らしい人。それを認めて、対する恋心も認めて、それが叶わないことも認めた。大丈夫、傷はまだ浅い。自身の痛む心を抑えるように胸元を数回さすってそう言い聞かせた。


「ごめん、名前先に帰ってて」


友人が申し訳なさそうに両手を合わせて謝ってきた。今日も一緒に帰る約束をしていたのだが、何やら追試があるらしい。分かった、がんばってねと頷くと一人でぼんやり空を眺めながら校門を出た。

下り坂に差し掛かると、ふとこの間の光景を思い出した。尽八くんの綺麗な走り。あれは本当に美しかったなぁと思い出に耽りながら、ただなんとなく後ろを振り返った。尽八くんの引き締まった後ろ姿を想像した、坂の上のほう。そこにはあの日とはまた違う、こちらを向いた尽八くん本人がせわしく肩で息をしながら立っていた。


「…尽八、くん」
「名前!もう苦しく、ないか」


私のほうへ近付いてきた尽八くんは、額からポタポタと汗を垂れ流しながらとても苦しそうだ。「あの、はい。なんとか大丈夫です」とはっきりしない受け答えをしたが、割と本音だった。失恋の傷はまだ癒えないが、なんとか大丈夫。尽八くんはそうか、と表情を変えずに言った。その表情からは心情は汲み取れない。

「オレは苦しい」
「そう…でしょうね、毎日練習お疲れ様です」
「そうじゃない、名前がいなくなったからだ」

ポタ、と地面に彼の汗が染み込んでいく。その汗の元を辿って次第に顔を上げると尽八くんが、あの日と同じ切ない表情をしていた。彼の言葉が理解出来ないわけではない。ただもう一度確かめたくて、わざと聞こえないふりをした。

「あの夜、オレは名前に言わなかった事がある」
「…何でしょう」
「言えなくなったから、言わなかったのだがな。先に謝っておく。…済まない」

深々と頭を下げられた。やめて、私はそんな謝られる事なんてしていない。寧ろ頭を下げるのはこちらだ。あたふたと動揺していると、尽八くんは顔を上げないままはっきりと私に聞こえる声で言った。


「好き…なのかもしれん。本当はそう伝えるつもりだった。もうそれも言う必要がなくなったと思ったが、名前の事が頭から離れなくて仕方ない。また前のように話したいと思った。だから追い掛けて来たのだよ」

耳を疑ったが、それでも一言一句聞き逃さなかった。いつも気障なこの人が目を合わせない。私は今だに動揺しながらも、顔を上げてくださいとお願いした。尽八くんの顔が赤い。しばらく下を向いていたせいで逆上せたのだろう。きっとそれだけだ、そうに違いない。


「あなたと居ると苦しいのは、あなたを想っているからです」

尽八くんはとても驚いた顔をしていた。多分私の言いたい事の半分も伝わっていないようで、そうなのか、ありがとうと何故かお礼を言われてしまった。

「…尽八くんが好きです」
「な、」
「でも私なんかでは不釣り合いだと思いました」
「…どこがだ?」

心当たりがないぞと言わんばかりに、小首を傾げられた。その言葉、仕草が嬉しくてくすりと笑うと、尽八くんもつられて笑っていた。

「婚約は破棄したが、オレは名前の隣にいたい」
「…なんだかプロポーズみたいですね」
「そ、それではまた話が戻ってしまうからな!つまりだな、その」

照れて頬を赤く染める尽八くんだが、私もきっと同じような顔をしていると思う。何でしょう、と余裕を見せて返答すると尽八くんは堂々と身を構えて今度はさらりと言ってのけた。

「また名前と一緒に居ることを許してくれないか」
「…はい、勿論です」

とりあえずはその敬語を止めてくれと言われて、分かりましたと答えた。婚約者ではなくなったけれども、前より二人の距離はずっと近い。こうして尽八くんと出逢えたのも堅苦しいお見合いがあったからこそと思うと、今日初めて私が私で良かったと感謝したのだった。



ゆかし
惹かれる





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