東堂尽八


「名前、大丈夫か!なぜもっとオレを早く呼ばなかったのだ!…何だ?グラス?…ああ、水が欲しいのだな。分かった!今持ってくる」

新開に囁かれた一言を聞きつけると名前のもとへと駆け寄った。すっかり水滴で濡れてしまったグラスを名前から無言で渡されたので一瞬理解に苦しんだが、ここは長年のオレと名前の付き合いというものだ。承知してからすぐに店員に新しいグラスに冷水を入れてもらった。ついでに氷は少なめで頼む、とお願いすると、大量のオーダーでピリピリしている店員が笑顔を少々引きつらせた。
ぐったりと長椅子に座る名前に冷水の入ったグラスを差し出すと、オレの手ごと両手で包んでゆっくりと水を口に含んだ。重なり合った部分が熱を帯びる。

「…っ全部飲んだか?」
「ん。あれ、東堂も酔っ払ったんだね。ふふ」

きれいに水を飲み干した名前がようやく手を離してくれたかと思えば、照れて顔を赤くしたオレをただの酔っ払いと思ったようだ。いつもの笑顔より多少締まりのないそれにまた更に胸が高鳴る。無防備…ではないだろうか。ひょっとしてまたオレをからかっているのだろうかと一瞬疑ったが、先ほどから目の据わっている名前の状態を見てきっとそんな余裕はないなと確信した。


―高校時代。まだ部活に入部したばかりのオレを先輩達が取り囲んで、皆口をそろえて「かわいい子を呼んできてくれ」と女子マネージャーの勧誘を頼まれた事がある。本音を言うと特に心当たりはなかったし、あまり強制するのも良くないのではと最初は躊躇していたのだが、ある日荒北に数学の問題を質問しようと奴のクラスを訪れた時。まるで少女漫画のワンシーンのように、教室の出入り口付近で派手に女子とぶつかってしまった。すまない、と床に倒れこんだ女子に慌てて手を差し伸べる。その女子生徒こそ名前だったのだ。…美人。思わずそう口に出してしまいそうなくらいに見惚れた。

「マネージャーになってくれ!」
「…は?」
「名前はなんと言うのだ」

我ながら、自分の用件だけを伝える無礼な奴だと自覚していた。顔を近づけて言い寄るとしどろもどろになりながらも、どうにか名乗ってくれた。そうか、名前というのか。「なんでいきなり下の名前…」と警戒心ビリビリの名前に笑顔を見せて、また来ると言い残したその日から二週間ほど、毎日のように名前を自転車部のマネージャーに勧誘した。そして二週間経ったある日、一瞬の隙を見せた名前の手を引いて自転車部の部室へと強制的に連行したのだった。(強制するのはよくないとか、そんなことはすっかり忘れていた)


「イヤよ」
「なぜだ!」
「…別に私じゃなくても、他にやりたい人いるだろうし。それに私にはマネージャーを務める理由も技量もないし、いずれ邪魔になると思う」

誘ってくれてありがとう、と一言添えて部室を出ていこうとする名前の手首を掴む。一度だけレースを見て欲しいと名前の目をただ一点に見つめてそう食らいつくと、観念したようで渋々「分かった」と頷いてくれた。

当時のオレ達は一年生であるし、到底三年生のインターハイメンバーの足元にも及ばない。それでも必死に食らいつこうとペダルを踏み続け風を切る様をこれでもかというほどに名前に見せつけてやったのだ。王者と呼ばれる箱学の自転車部にマネージャーがいないわけではないが、先輩達が引退した後のことを考えると今のうちから人材を育てておきたいのは当然の事であり、そのマネージャーの一人としてどうしても名前に傍にいて欲しかった。容姿とかそういうものだけじゃなく、この二週間で分かった名前の性格や能力なんてものを全て含めて。

レースを終えたオレは、佇む名前のもとへ一目散に駆けつけた。乱れた息と上がりきった心拍数はなかなか整わない。何か話しかけようと懸命に頭を働かせていると、先に口を開いたのは名前のほうだった。

「誘ってくれてありがとう」

その一言にオレはついに名前の心までは動かせなかったのだと悟って俯いたまま「ああ」と呟いた。これ以上は深入りするまい。しばらく沈黙が流れる中「東堂」と名前が初めて呼ぶオレの名前に反応して顔を上げると、少し潤ませた目がオレを捕らえた。

「これから全力でサポートさせてもらうから…その、よろしく」

浅くお辞儀をして前に垂れた横髪を耳に掛ける仕草と、耳を疑うようなその嬉しい言葉に感極まって両手を広げ名前に飛びつく。すると名前とその周りから色んな部員の悲鳴が聞こえてきた。こうして晴れて名前が自転車部のマネージャーになった、思い出深いそんな一日。

高校時代の思い出話に花を咲かせている時、今でも「東堂が名前を勧誘してくれて本当に良かった」と稀に感謝される。そうだろう。やはりオレは当時から目の付け所が良かっただろう。そう言うとどうやら新開はもちろん、荒北すら箱学の入学式の時から名前の存在を知っていたらしい。早く言え。

まぁそれだけ人の目を惹きつけるほどのものを持っていた名前だったが、彼女に対して当時のオレが恋心を抱いていたかと問われると、小一時間くらい悩み込む自信がある。高校三年間、名前とは違うクラスだったのだが、彼女に会うために昼休みは無論、暇さえあれば十分休憩の時間ですら毎日名前のクラスまで足を運んだ。新開には何度も「そんなに好きなら告白したらどうだ」と言われたが、そう言われるたびにこれは恋愛感情ではないと否定した。別に素直になれないとか、照れ隠しとかではなく、単に今のこの関係が心地良いと感じていたから。


ーあれから8年が経った今になると、あの時もしオレが名前を好きだったとして、告白をしたらどうなっていただろうかと妄想する事がたまにある。今、目の前で眉を垂れ下げて潤んだ瞳をこちらに向けている名前。どことなく色気と艶やかさが増した彼女にオレはどう接すればいいのか混乱した。親しい友人の女の部分なんて見たくないはずなのに、なぜだか悪い気はしない。

「…名前」

試しに名前を呼んでみると、はぁい、とふ抜けた返事をされた。もし今の名前に付き合っている奴がいるとしたら、間違いなく相手に嫉妬するしどんな奴かと見定めるだろう。でもそれは女同士の友情にもあるようなそんな感覚で、全くオレはこんなにも女々しかっただろうかと自嘲した。

「名前は、オレを親しい友だと思ってくれているか」

ぽつりとそう呟くと名前はいつもより少し緩んだ表情を変えないまま、一度だけ頷いた。

「たぶん、男友達の中で、一番ふざけ合えるヤツだと思っているよ」
「…そうか!」

途切れ途切れに発せられたその一言で心の奥が一気に晴れ渡る。これが恋だの違うだのと迷っているうちはまだ親友とは呼べないのかもしれないが、それは名前が一人の女性として無駄に魅力的なのが悪い…ということにしておこう。そう勝手に決めつけると何だか納得がいった。

「…そろそろ皆のところに、戻ろうかな」
「まだここにいろ、歩けないだろう」

しゃがんだオレの肩を持って立ち上がろうとする名前を止めようと押し返すと、「東堂が肩貸してくれたら歩ける」と甘えてきた。…名前にこうやって頼られるのは初めてではないだろうか。一人勝手に感動していると背後から聞きなれた声が聞こえた。

「戻ってこねぇと思えば…なァにくっついてんだヨ!気持ち悪ィ」
「聞いてくれ荒北!名前がオレを頼ってくれたのだよ」
「えー私いつも頼ってる、じゃん」
「ウソつけ」

荒北はそう言いながら、へらへらと笑顔を向けてくる名前をオレから引っ剥がすと、しっしとオレをのけ者にしてきた。反論しようと食いかかろうしたその時、この短時間ですっかり出来上がった新開がオレの首元を掴んで「飲むぞ」と引きずり宴会の席へと戻される。ああせっかく、名前に頼られたというのに。

140906



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