黒田雪成


何なんだあいつ。遠い目をしながら笑って宴会の席へ戻って行った真波を不思議に思いつつ、ふと座り込む女性に目をやる。するとさっきすれ違いざまに行った真波の「あとはお願いします」の言葉の意味がようやく理解できた。一瞬真波の奴が何かしたのではないかと疑ったが、あの表情からするとそれはないなとすぐに頭の中から消去した。
名前さんと会うのは約一年ぶり。オレと塔一郎の就職の内定祝いとして、新開さんからお酒を奢ってもらっている所に名前さんも駆けつけてくれたあの一件以来だ。あの時は憧れの先輩が急に目の前に現れたものだから、オレも塔一郎も肩を並べて緊張したのをよく覚えている。…新開さんも、十分に憧れの先輩だけれど。


「…名前さん、立てますか」

白いブラウスから伸びる細い手首を掴むオレの手を鷲掴みにして、ふるふると首を横に振った。…そんなに飲んだのか。名前さんの目線に合わせるように腰を下ろして、さっきからずっと下を向くその顔を覗き込むと、緩みきった笑顔で「黒田、おかわりちょうだい」とグラスを差し出しながら水をねだられた。不意をつかれたその仕草にドキリと胸が高鳴る。
咳払いをして、少しだけ距離を置いて名前さんの横に同じようにしゃがむ。「どうしたの?」と不思議そうにオレを見てくる名前さんはやっぱり美人だ。あの時の事を、先輩は覚えているだろうか。一人勝手に過去の出来事を思い返していると、名前さんは今だにオレにグラスを押し付けて水を欲しているようだったー。




「…っえ、オレ、ですか?」
「うん」

まだオレが一年生の頃。選手としてより、三年の先輩達にボトルを配ったり一人一人のタイムを計ったりとサポーターに徹する事のほうが多かった、入部して間もない時期だった。マネージャーである名前さんの隣で一緒にタイムを計っていた時、他のマネージャーが名前さんに「部員の中でもし付き合うなら誰か」と何とも女子の間では盛り上がりそうな話題を持ち出していた。…誰だろうな。オレだったらいいな、なんて淡い期待を抱きながら意識は完全にその話題へと向いていた。名前さんはううん、と少し考え込んで「黒田かな」と記録用紙から目を離さずに呟いた。焦って思わず左手に持っていたストップウォッチを落としそうになる。

「顔良しスタイルよし運動神経も申し分ない。実にいい男だと思うよ、黒田は」
「…なんか嬉しくないです」

一瞬目を輝かせて喜んだ自分を責めた。当然といっては当然だろうが、名前さんはオレと付き合うつもりは毛頭ないんだろう。かといってオレに彼女への恋愛感情があるわけでもない。言うなれば憧れ。ただそんな彼女が付き合いたいと思う人物第一位の座を獲得しては嬉しくないはずがなかった。

「オレはもし付き合うなら名前さんが良いですね」

一瞬でも動揺した自分が恥ずかしくて、ささやかな仕返しをした。まあどうせ何とも思わないんだろうけど。そう思って、何も返答がない名前さんのほうを見ると顔を真っ赤にしていた。…え、何その顔。

「く、黒田がそんな事言うと思わなかった」
「…冗談ですよ」
「わかってるよ!」

珍しく焦っている名前さんを見て、改めてこの人は天然の人たらしだと思った。あんな顔をされては普通の人は勘違いしてしまう。オレもその普通の人になりそうで恐くて、ないない、名前さんに限ってそれはないと必死に暗示をかけたー。



あの時の事は今でも鮮明に覚えている。今目の前でお酒に飲まれているこの人との高校時代のちょっとした思い出。
そういえば、あの後話を聞きつけた東堂さんが血相を変えて「何故オレじゃないんだ!」と名前さんに詰み寄っていたのも思い出した。…あの時名前さんはオレの事をどう思っていたんだろう。いや、多分どうとも思っていないんだろうけど。…お酒の入っている今なら、思い切って聞いてみようか。名前さんと声を掛けると、うううと小さく唸っていた。

「名前さん」
「んー?なに?」
「……水、持ってきますね」


名前さんの持っていた空のグラスを奪い取って、腰を起こした。やめた。やっぱり聞かないでおこう。あの時の名前さんはきっとオレの事を密かに好きで、オレは名前さんに興味なかった…そういう事にしておこう。空のグラスを持って宴会の席へ戻ると、ちょうど席を立った塔一郎に耳打ちしてオレはさっさと空いた席に座り込んだ。


140812



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