深い夜
部屋のカギをバッグへ戻してエレベーターを待つあいだ、乾燥した肘を掻きながら、ふと灼のしずかな寝息を思い出す。
つめたい体温、喉の奥が痒くなるような低い湿度の声……、あまやかでとろとろした瞳。
灼はいつも抱擁をねだって、わたしはその願いを受け入れる。
わたしたちは互いに深く欲さない。周りから見ると少し不思議な、"そういう"仲。わたしたちにはこういうのが心地よくて、でもなぜだか時々、現実から突き落とされたかのように苦しくなる。
――仕事終わったよ。いつものところで
灼からメッセージが届いて、意識が戻る。エレベーターの扉が閉まろうとしていた。
彼の仕事帰りにいつもの場所で。灼は仕事柄、定時とかはなくて、でもどちらかと言うとしっかりと私生活を送ろうと努力をしているタイプみたい。家庭を持つ同期が身近に居るからだろうか。
「久しぶり、凪」
「うん。灼も」
きちんとしたイメージを発揮出来ていないスーツの裾は今日もよれている。本人が気にしていないから指摘しないけど、そもそもホロなのか実物なのかもはっきりしない。
夜の道を、手を繋いで歩いて、彼の住まいに向かう。
俯きながら歩いている姿は、いつも幼い子どもみたい。その横顔に声を投げ掛ける。
「最近、仕事、いそがし?」
「僕? うーん。それなりかなぁ。凪は?」
「えっと、『それなり』かな」
「ああっ。そうやって…。」
ちょっと拗ねる顔が可愛らしいから、いつも曖昧に返事したくなるんだよ。
「まぁー。灼が怪我なく過ごしていてくれれば、ジューブン」
「お互いにね」 そう言って灼が指を絡めてくる。
「今日は帰したくないなあ」
「いつも帰さないじゃない」
別に、いやらしい意味じゃなくてさ。あなたがわたしに引っついて離れないから、物理的に。
灼はリラックスした感じで、ずっと2、3歩前を進んでる。今日は機嫌が良い方みたいでひっそりと安心した。
「あっ。そういえば、この前の任務の時に美味しそうなケーキ屋さんあったから、覗いて帰ろうよー」
「え? こんな時間までやってるの?」
今、21時過ぎだけど。
「覗くだけ。お店の前を通るだけ」
マイペースぶりも、相変わらずだった。
***
部屋に上がるなり、お酒を飲まない? という彼。別に良いけど、少し珍しい気がする。
わたしはこれまでの人生で飲酒の経験が少なく、ケイさんと舞子ちゃんのお宅で目下練習中なこと、知ってるはずなのに。
「灼とふたりっきりで飲むのは少し怖いかなあ」
キッチンに立つその背中に触れながら言うと、甘い瞳を向けながら手を握ってくる。む、誘惑する気だな。
「なんで?」
「だって、もし何かあった時に介抱できる人がいないよ」
「僕がするよ。もし凪が途中で眠っても、ベッドまで運んであげられる」
「いや、わたしはあなたが心配なんだけど……」
灼の両手がわたしの腰を掴む。そのままするすると背中を撫でて、近づいてくる顔。彼のにおいが濃くなる。
「信じてよ」
「どうやって」
彼はわたしの首筋に顔を埋めながら、もごもごと言う。
「一杯だけ〜。お互いに……」
その提案には、イェスと答えた。それからオマケでじっとりと唇だけ押しつけあうキスをして、彼は歯を見せた。近い距離のままで灼はささやく。
「今日のは飲みやすいワインだってさ」
「誰に貰ったの?」
「ひ〜みつ」 パッと身体が解放された。
灼がワインを用意するあいだ、お酒が飲めるようなグラスを探す。この家には秩序がないから、必死になってもなかなか見つからなくて、膝をついたりして低い棚の中を覗く。見つからないとなると、どんどん飲みたい気持ちが強くなってきて、『深酔いした灼の姿も、知ってみたい』という気分になってくる。
さっきまでは乗り気じゃなかった気分が、今はむくむくと膨れ上がってる。
「凪、もういいからマグカップで飲もう。見つける前に夜が明けちゃうよ」
「灼、雰囲気なさすぎるっ」
「一杯だから、今日はこれでいーの」
結局お揃いのマグにワインを注いで、グラス探しの途中で見つけたおつまみも一緒に愉しむ。
こんな時間からお酒を飲んで話していると、結局一杯で終わらなくなってしまった。灼はいつも以上に饒舌になり、最近の仕事の事とか、仕事仲間の事とか、ケイさん夫妻の事とかを一生懸命に話した。何度もくり返されたような内容だとしても、彼の話は不思議と聞いていられる。
その姿はいつもと変わらず愛らしいけど、目は半分閉じて、身体はソファからずり落ちてしまいそうだし、もうつらそうだ。
「もう寝よっか? 灼」
「うん……」
手をつないで、時々倒れそうになる彼を必死に引っ張っていつもの寝床まで導く。
薄暗く冷える部屋。この場所で彼を見下ろす時が、わたしにとって一番胸が痛くなる瞬間だ。
「灼、車、乗って」
後部座席の扉を左手で開けて押し込もうとすると、体勢をくずしてふたりして床にしゃがみこんでしまう。
もはやおんぶをしているみたく背中に彼の熱を感じる状態で、わたしはしゃがんだまま、肩口の彼に声をかける。
「ん……、や、だ……」
「嫌だって。灼、いつもここで寝てるんだよ?」
「……離れない」
「じゃあ床で寝る?」
灼がそうするなら付き合っても良いと思った。幸い、わたしが持ち込んだ敷布団セットが一式あるから、ここに敷いてふたりで眠ればいい。
そう考えていたのに、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「君と、ベッドで一緒に寝る」
そう言って、器用に身をよじって、柔く手を握ってくる。
顔を見ると、もう完全に目は閉じている。
わたしは優しく諭すように、はっきりと応えた。
「ねえ……灼? わたしがベッドまで灼をおんぶするのは難しいよ。車なら運んであげられる。今日はひとりで寝られる?」
「…………い、やだ……凪と……」
…………彼の胸が、ゆっくり上下に動くのが見えた。眠ったのか、気を失ったのか。
スーツのホロが寝苦しそうで解いてあげたいけど、彼のデバイスは兼仕事用なので触るのをはばかられた。
彼の両脇に腕を突っ込んで上半身を持ち上げる。……ずいぶんと軽いね、灼。多少乱暴かもだけど、何とか座席へ突っ込んだ。薄い毛布を身体全体へ掛けてやる。
灼はよく眠る人だ。ケイさん曰く、”仕事がハードだから仕方がないんだ”ということらしいけれど、それにしたって。
全部は知り合わなくてもいい。だけど、心配になる時が多いよ。
「灼……ひとりきりで、抱え込まないで」
あなたの瞳が好き。どうか、変わらないで。濁らないで。
彼のまぶたに唇を寄せて、わたしは静かに扉を閉める。