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 執行官としてのわたしは死んだ。
 数年ぶりの一人きりでの生活。一人で街並みを歩くただの女性。その正体は、知らなくても良い世の中の、綺麗ではないところを沢山知ってるわたし。
 日々の暮らしの中ですれ違うすべての人が潜在犯になり得る事を、悲しいけど解っていた。例外に漏れず、元潜在犯だったわたしも含めて。



 スラム街の寂れたカレー屋で、少し痩せたか? と狡噛が言った。5分ほど前に飲み物のように料理を食べ終えた彼は、今はまるで、喫煙所にいるようなペースで煙草を楽しんでいる。飽きないのかな。とか思いながらも移動せず、その隣でカレーを食べてるわたしって……。
 向かいのカウンターに座るカップルは先程から何度も口付けを交わしていた。隅のテーブルにいる女は、号泣しながら3種類ものカレーを頬張っていた。店主らしき初老の男性は、座席を囲うように造られた厨房で静かに新聞を読んでいて……その他、諸々。規則なんて存在しなさそうな店内。
 カオスだった。

「……え、で何だっけ?」
「痩せたんじゃないか、と言ったよ」
「なワケ!」

 入口の方に目を向けると、私服に身を包む宜野座と須郷さんが2人席に居るのが解った。ギノは背を向けているから表情が分からないけれど、須郷さんは少し頬が強張っている。カオスな店内で、ただでさえ堅気な雰囲気で存在が浮き彫りになっている上に、カレー屋でそんな顔をしているお客見たことがないけれど。
 此処にターゲットがいるんだろう、という所まで推察出来た。

「東京中にはいくつもカレー屋が溢れてる筈だよね。どうしてたまたま、こんな所で会うかな?」
「そんなの俺が聞きたいね……。お前、誰の入れ知恵でこんな所でランチをするような女になったんだ」
「さあ……。あ、でも数年前に蒸発した彼氏が一応、刑事だったんだけど。彼からは、人生における抜け道の楽しみ方を色々教わったかな」
「凪、お前……」

 狡噛が身を乗り出した時、向かい側のカップルが大きな態度で勘定、と言う。ようやくあの厭な音を聞かなくて済む……ほっとした。ただでさえ、この男が隣にいる事実が気まずいんだから。

「ほとんどが狡噛のせいでしょ。あなたって人は、無意識に他人に影響を与えてるんだか……」
「おい……テメェ!」

 突然、男の怒鳴り声が響き渡った。元々客の数は多くはなかったけれど、煩雑だった空間が一瞬にしてシンと静まる。
 ぎょっとして声の方を見ると、先程席を立ったカップルの男が、元凶らしき客相手に脱いだジャケットを突き出していた。

「俺の高級スーツにっ……!カレーがッ……カレーが付いちまったじゃねぇか!!!」
「おっと……それは済まないな。高級……か。紙ナプキンかと勘違いしたよ」

 マジかよ、相手も酷い人だ……と思ってひっそり店主の様子を窺うと、慣れているのか、客同士の喧嘩には関さないつもりのようだった。その様子を受けて、わたしも少し冷静になる。
 スプーンを持ち上げて食事を続けようとすると、隣の男の存在を思い出した。狡噛を見ると、 まるでこの状況に全く気が付いていないかのような……毅然とした態度で、煙草を咥えていた。
 ぱちっと視線がかち合った後、目元だけでうっそりと笑って、肩同士が近付く。

「凪、さっき蒸発した彼氏って言ったけど、元彼氏じゃないんだな」
「……だって、……。」

 左肩に感じるあたたかい体温に、最期の日を思い出して胸が痛くなる。
 だって、貴方に捨てられた訳じゃなかった。

 あんなに会っていなかったのに。薄暗い店内で、おい、と……声を掛けられて……その声と気配は、顔を上げるより先に分かっちゃったんだから。

「狡噛さん」 一文字を大切に、名前を呼ぶと、「何だ」とぶっきらぼうな言いぐさで返ってくる。あの日々と何も変わっていない狡噛さんを今、全身で感じている。

「もう一度聞くけど、どうして此処にいるの」

 しかも、彼らと。

 ギノの背中に目をやる……と、彼は立ち上がっていて、丁度男を殴り倒したであろうところだった。

「え、は………!?」

 脳が補完し切れなくて、ただ凝視する。
 床に転がって呻き散らす男に向かって、金髪の女が色々と叫びながら頭を抱えている。ほら言った、とか捕まえるならコイツだけにしろとか。少しだけ、癖のある日本語で。泣き方が、ふつうじゃなかった。
 女の腕を捻り上げた須郷さんが落ち着きのある声音で言った。

「なぜ泣く……? この男を信用していたんだろう。その結果、こうなったんだ」
「須郷、対象を刺激をするんじゃない」

 ギノの左腕が男を簡単に担ぎ上げた。端末を触って、報告をしているのか──ふと髪が揺れて、こちらを振り返った緑色の目とぶつかる。

「あ……」

 先に逸らしたのはあちらだった。カップルは公安局によって連行されていく。
 後ろから肩を掴まれて意識が戻る。一瞬だけ、Spinelが強く香った。

「凪、もうじゅうぶん食っただろ。……街の出入口まで一緒に行くぞ」
「こ、うがみさん」
「……からだ、震えているな。ゆっくり、深呼吸をするんだ」

 狡噛さんの硬い手の平がわたしの両腕を擦った。自然に背筋が伸びる。
 言われた通りにすると、汗が吹き出た。ああいった緊迫した状況は久しぶりだった。
 いや、それかスパイスのせいかな……。
 覚束ない手でバッグを開いてハンカチを探していると、狡噛さんのタオルの方が早く、わたしの額を拭った。それでも……

「あっつい……」
「お前、会った時からずっと赤い顔してたぜ」

 狡噛さんの呆れ顔を見つめてる間も、耳の中でどっくん、と大きな音が繰り返し鳴る。首から上が逆上せたみたいにぼうっとしてる。
 狡噛さんが現れてから数十分経って、ようやく心臓がいつもより随分早く打っていることに気が付いた。



 狡噛さんに手を引かれて外に出る。体格が違うから仕方ないけど、早足に追い付くだけで精一杯だ。
 この態度からして恐らく"勤務中"なんだろうけど……
 目の前に彼がいて、一緒に歩いている意味が分からなかった。

「お前、監視官の同伴は?」
「要りません。わたし……もう執行官じゃないから」

 びっくりした顔をした狡噛さんがわたしを見下ろした。……そうだよね。そう思うだろうね。

「そうか」
「……驚きました?」
「ああ。でも……よかった」

 狡噛さんが笑った。掴まれたままの手首が、ぐんと熱くなって感じる。

「今の生活には慣れたのか? 住む場所は? 近所に、何でも相談出来る人間は」
「ちょっと!そんなに矢継ぎ早に言わなくても……」
「あ、すまん……」
「狡噛さん、いくつになったの? 彼女はいるの? 今は、何の仕事をしてるの?」
「何だ、いきなり」
「今されたことを返しただけ」
「……これは確かに、困るな」

 繋がれた手首から通信の音が鳴る。狡噛さんは器用な身のこなしで、腕を上げ、もう片方でわたしの肩を抱いた。スラムにはこれ以上のスキンシップも横行してるから、別に周囲の視線を引くことはない。

「ああ、俺だ。心配するな。ちゃんとギノの姿を捉えて歩いてるよ。お前の背の高さも、此処じゃあんまり効果がないけどな……はは、気を付けろよ。そんなにあちこち見てたら、いざという時そいつらに逃走されちまうぜ」

 わたしの身長じゃギノの姿どころか狡噛さんの胸元しか見えない。至近距離で、がんばって少し上を見上げると、見慣れた首のラインと明らかに大きくなった肩が目に入る。

 困ったな。色々話したくなっちゃうな。

「そうだ。凪も、一緒にいる」


 時間が……足りないよ。



**



 スラム街を抜けたところで、一台の車が停まる。不信に思って中を覗き込むと、後部座席には意識のない男女が詰め込まれていた。ああ……とこのふたりの将来を憂いでいる時、助手席のドアが勢いよく開いた。
 私服の上から黒いジャケットを羽織った戦友がわたしを見下ろした。

「ギノ」
「凪」

 もつれるように近付いて、互いに胸がぶつかるようにハグをする。ギノらしくない少し埃っぽい匂いが鼻先を掠めた。

「元気にしてた……? 私服だから、最初は分からなかった……。」
「俺よりも、君が心配だった」

 でも、その様子なら大丈夫そうだな。ギノがそう言って、わたしの背中を励ますように叩いた。

「そういえば……弥生は今、公安局に協力してるんだって……?」
「そうだ。時々顔を出してもらっているよ。色々と……君に連絡は来てないか」
「あの子、月に一度来たら良い方よ」

 くすくす笑いあって、ようやく身体を離して顔を合わせる。相変わらずの髪と目元だ。

「……お前も来るか?」
「わたしはもう、いいの。ごめんなさい」
「そうか」

 わたし達は身体を離した。 
 運転席側に立つ須郷さんに会釈をして、狡噛さんを振り返る。しばらく見つめていると狡噛がただ「妬けるな」と言って、強引に腕の中に抱かれた。
「また、変な冗談言って」 わたしはその言葉を吐き捨てる。
 狡噛さんの態度を観察していたギノは海のような穏やかな声で、冷静な目で言った。

「狡噛、これは旧友からのちょっとした助言だと思って、聞き流してもらって結構だ……今すぐ、その手を離せ。──また、他人の人生を振り回すのか」
「何だと?」

 ギノが監視官の頃だったら、もっとヒステリックだったのに。伝え方ひとつで、ことばがこんなにも心に響くということを、少し前の一係に教えてあげたい。

「凪の更正は、凪自身の努力によるものだ。決してお前が突然、姿を消したからじゃない」
「まあ、かなりの転機にはなったでしょうが……」 須郷さんがこっそり呟いたのが聞こえた。

 狡噛さんの指がわたしの肩に食い込む。い、痛い……。
 ジトッとした重たい空気が広がる。誰よりも先に耐えられなくなった。

「ねえっ!ちょっと……わたし、もう帰るから。刑事のくせに、無垢な一般人を拘束しないでよねっ」

 大きな声で言えば、一般人という言葉にギノが目を白黒させた。我に帰ったのか、少し慌てた様子になる。

「あ、ああ。そうだったな、凪、すまなかった。悪いが俺達はここで失礼するよ。こんな治安の悪いところで遊んでばかりいないで、早く家に帰れよ」
「はいはい、分かったよギノ先生」
 からかうと、ギノは眉を引き上げた。
「じゃあねギノ、須郷さん。元気で過ごしてくださいね!」
「どうも……」
「……狡噛さんも、一緒に帰るんじゃないの」
「後部座席は既に埋まってる」
「あ、俺が寄せますよ」 したり顔の須郷さんが、間髪入れずに言った。狡噛は首をすくめる。
「はぁ……分かったよ。乗るさ」

 溜め息混じりに溢しても、全然手が離れる気配がない。窓越しにギノが苦笑してる。仕方がないから無理やり掴んで引き剥がすと、狡噛さんは眉を寄せた。

「何だってこんな力が強いんだ」
「誰かさんのせいで、筋トレも習慣になってるんですー」

 またボロが出た。
 四六時中、突然の収集に怯えることも、ネットサーフィンをして洋服を眺めるだけのことも、毎日スーツを着なくて良いし、服に着く酒や煙草や血のにおいに悩まされることも無いのに。
 この人と話すと、自分が何も変わってないみたいで情けなくなる。今のわたしは以前と全然違うはずなのに、廃棄区画やスラムから見上げる四角い青空の方がずっと馴染んでる。

 必死に狡噛さんの背中を押すけど、どっしりとした質量のからだは全く動いてくれない。

「ほら、早く行ってよぉ……!狡噛のバカ……」
「全くお前も、ツレないな。久々に会ったっていうのに」
「会った……? 今日なんか、偶然じゃない」 げんなり返すと、狡噛さんの頬がびくりと動いた。
「何言ってる、偶然なわけあるか!お前がスラムに頻繁に顔を出してるのは知ってたよ。捜査の時、何度も見かけたからな。もうこういうのは、やめろよ。代わりに普通の飯屋で食え。暇があれば俺が連れていってやる」
「だから、そういう冗談……」
「これでも冗談だと言えるのか」

 狡噛さんは胸元から端末を取り出した。そこには狡噛さんの名前と、

「えっと………、がいむしょう? 海外、調整局──」
「行動課、特別捜査官 狡噛慎也だ」
「はっ………?」
「俺はまた、ここで生きる事にしたよ。それで、ずっとお前を探していた。ようやく見つけたよ。本当に、長かった……」

 もう我慢できない……そんな感じで、正面から抱き締められた。
 一瞬ドキッとしたけど……唇を噛み締める。
 あのさ、わたしの背後に元同僚もいるんですけど……? 貴方、そういうデリカシーないの……? あ、元からなかったね……。
「すまん、言ってなかったな。今は同僚だ」 背中にギノの声。
「それは……驚くべき事ね」

「…………に、行く」
「分かった……分かったから、離して」
「凪」
「ん?」
「会いに行く」

 まっすぐな瞳が、ぬらりと輝いた。勇ましい声で、あまりにも誠実な顔でそう言って、目を細めた。あ、と思ったときにはもう、唇が重なってる。あたたかくてなつかしい温度だった。一粒だけ垂れたお互いの涙で、頬が濡れてしまっても、気にならない。
 この煙草のにおいが嫌い、って言った初めてのキスを思い出す。

「ひとつ……今すぐに、言わなきゃいけないことがある」

 爪先を伸ばして、狡噛さんのうなじに触れて、後ろ髪を撫でる。

「狡噛さんには、ずっと、感謝しきれないの……」

 ずっと愛したい。そう想える人と出会えた夢みたいな事、そうめったにあることじゃない。
 でも、永遠なんてないと気付かされたから。あのお別れの仕方で、知ったから。だからこそ、この瞬間がどれだけありがたくて、当たり前じゃないのかよく解るよ。

「奇跡みたいにまたわたしを見つけてくれて、ありがとう」「いや、これは奇跡じゃない」

 わたしの大好きな少しおどけた狡噛さんの笑顔。あまくやけどしそうなくらいにあつい狡噛さんの頬が、わたしの頬にぶつかってくる。
 ねえ、知りたいな。どこで覚えたの? こんな……外国のようなスキンシップを。


「俺自身が選んで、望んだ役目だよ」







 自然光だけでは暗くて、色々な臭いがして、地べたには沢山の人間が座り込んでいる。それでもどこか活気があった。
 本来はただの廃棄区画であったろう場所をここまで発展させ営むここの人間達からは、生きる力を感じて、どこか懐かしさを覚える。親近感、というよりは、馴染んでいる景色だ。それでも、これまで見てきた惨状の中でも日本はまだましな方なのだろう。すでに"これまでは"、の領域ではあるが。


 大きな体の男と肩がぶつかった。ジェスチャーと表情で謝まって穏便済ませて、少し遅れてしまった距離を詰める。

「なぁギノ、こんなところが出来たのか」
「そうか。お前は来るのは初めてだよな」
「お前達はよく来るのか?」「いや……自分達も実際には初めて来ましたよ」

 だろうな、と心の内で呟く。
 適当な間隔を空けて須郷の後ろに着いていると、視界を横切った女にふっと目が止まる。

「おい……あいつ、普通の奴だろ」
「普通って何だ」 ギノが呆れたように言った。
「この辺りの人間じゃないって事だ」

 視線だけで後を追う。場合によっては保護対象にも成りうるだろう。少し駆け足気味になると、男の力で腕を掴まれた。振りほどこうとしても無駄で、諦めて顔を向けると革のグローブに拘束されていた。
 ギノの静かな瞳が強く俺を見る。

「コウ、チームワークを考えてくれないか……。頼むから」
「……解ったよ。すまなかった」
「確か、この辺りには例のクスリの流通に詳しい人間がいるとか」

 須郷が空気を変える。ギノがうなずいた。

「よし、まずはそいつの所へ行ってみよう。それから大元まで辿れると良いが……。おい狡噛、遅れずに着いてこい。くれぐれもはぐれるなよ」
「へいへい」

 肩を回してさりげなく先程の影を追う。
 見間違えることがあるだろうか。──すでに公安局がいるのか? しかしそんな情報は共有されていないし、俺に伏せる理由も現在はない。
 加えてあの女からは、刑事の匂いを感じなかった。
 昔俺の手で守ろうとして手放した、凪の背格好に確かにそっくりだった。あの、あたたかい雰囲気にミスマッチな、諦めを知っているような瞳の色が、とても似ていた。

 女は最後に飲食街の方へ折れていく。その道すじを、脳裏に焼き付けた。




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