天使


 肌が粟立つような寒気で目が覚める。何事かと眼だけで辺りを見ると、毛布が身体からずり落ちていた。うーんと唸り声が出た。
 片足を床につけて拾い上げ、二度寝をしようと横になって黒い天井を見つめると、胃があたたかい飲み物を求め始めてしまった。……結局もう一度、起き上がる。

 別室の扉を開けるとちょうど、白い布にくるまれたかたまりがもぞもぞと動いたところだった。いつだか、虫図鑑のデータで見た、蝶の羽化にそっくりだなと思った。
 近寄って、シーツの隅を持ち上げる。もったりとした豊かな髪の毛が、凪の顔まわりを覆いつくしている。

「おはよ、凪」

 起きてほしかったから声をかけたけど、残念ながら気付いて貰えない。

 眠る彼女のお腹の辺りに腰掛けて、肩の辺りまで毛布をめくると、健康的な肌色とキャミソールの頼りない紐が現れる。眠る時かならず薄着になりたがる彼女は、常にいつも目に毒だ。
 でも不思議と邪心は訪れない……。"そういう"情を、彼女には抱いているから。

 じつと見下ろしていると気配に気が付いたのか、ゆっくりと両瞼が持ち上がった。重たげに視線を動かしてから、暗い色の両目が俺の姿を映す。

「んっ……灼……」
「おはよ」
「うん、おはよう……え、何時?」
「今、5時だ」
「5時……あれ、今日お休みだって昨日……」
「うん、言った。休みだよ。でも目が覚めちゃって」

 ぽつぽつ告げると、彼女は身体をこちらに向けた。おおきくはないけど柔らな胸がかたちを変えるのが薄暗やみでさえ見えた。"無防備"、俺以上にこの子にぴったりな言葉。
 カーテン越しに差す早朝のあかるさで、陰影が作られてやたらくっきりした胸の谷間をぼうっと眺めながら、俺は口を動かし続ける。

「うん……本当はもう一回寝たいんだけど、少し喉も乾いてるような気がして……」
「お水、飲んできたら?」
「行く途中に凪の顔見てからと思って、気づいたら座って声かけてた」

 ふふ、と凪の鼻息に近い笑い声がした。女性らしさもある大きな手が俺の腕を掴んで引っ張る。

「灼、来て」

 凪の目をじっと見ながら、ゆっくりとなだれ込むように、身体が落ちていく。
 季節外れの分厚い毛布のなかで、少しだけ汗をかいた腕が俺の腰に回る。鼻から息を吸い込むと凪のにおいでいっぱいになった。しっとりしてさわり心地の良い背中に、指の腹を食い込ませるようにして抱きしめる。

「うーん……きもちいい……」
「灼、今日は何して過ごすの?」
「んー……とりあえず洗濯機を回して……あ、夜は炯の家に……たしか」
「そっか。じゃあ、昼間はおうちで過ごそっか」

 その言葉に密着していた身体を離して、凪の顔を見下ろす。ちょうど俺のせいで影になって、表情があまり分からないけど、先程の言葉の端に感じた違和感を捨てられない。
 俺が人の感情の揺れを、特に凪の気持ちを見失う訳がないのに、こうして時々試される。

「……いや、いつもの喫茶店でカフェオレが飲みたいな。で……ちょっとだけ雑貨屋も寄って、舞ちゃんにお土産買って、2人でお邪魔しようか」
「……わたしもいいの?」
「うん。凪、舞ちゃんの友達になってあげてよ。俺達、友達が少ないんだ」
「舞子ちゃんの友達……わたしみたいな子が、なれるかな?」
「もっちろん。なれるさ」

 そういうと凪は頬を緩ませて安心したように微笑んだ。肩甲骨の出っ張ったところを優しく撫でる。お互いの胸が合わさって心臓の存在を感じる。あったかくて、とても静かに感じる朝だ。

「ね、灼。ケイくんの友達にはならなくていいの?」
「うん。炯はいいよ。格好良いから。凪のこと取られたら困るし」
「そんなことは絶対ないよ」

 絶対、なんて誰にも分からないじゃないか

 胸の内で呟いて、凪の髪の上でそっと顎を引く。
 突然無言になる俺に、彼女は何も言わずにいてくれて、シャツの胸元にそっとおでこを押し付けてくるだけだった。

 
***


 約束通り、俺達は遅い朝食を摂りに街へ出る。とは言えお互いあまり食欲がなくて、パンケーキを半分ずつにして食べる。あまずっぱい苺のソースと、ほどよく冷えたクリームがすごく美味しかった。凪も、幸せそうに頬張っている。
 頬杖をつきながらその顔を眺める。

「ね、凪。幸せ?」
「うん。おいしーい」
「知ってる……顔に書いてある」

 俺と2人っきりで話してるときも、こんな顔したらいいのになぁ。
 パンケーキに若干の妬みを覚えると、テキストで通信が入る。炯からだ。今夜、約束を覚えているか……と。


"今、凪とデート中。連れてくね"

"分かった。舞子も喜ぶよ"


 いつも通りの炯の反応で安心する。
 はあ、パートナーまで疑う俺って一体どれだけ……。

 目を閉じて己と向き合っていると、凪が俺の名前を呼んで、突然こう言った。

「灼は良い彼氏だね」
「ん?」

 凪の下唇がくにっと弧を描いて、ふにゃっと笑った。
 0から100まで感情の振り幅を全部用いてこうも喜んでくれる凪と一緒にいると、甲斐性がある男になれているかなぁと勇気を持てる。

「はは。今さら分かったの?」
「うん……ごめん。遅いんだけど。この前友達に灼の話をしてる時、ハッとした」
「ちょっと、変なこと喋らないでよねー……?」
「しゃべってないってば」 彼女が本気で否定し、困った顔をする。
「公務員のカレシって言ってるもん」
「うん……それは嘘じゃない。でも、正しくは公務員で同級生で、10センチ差で、スイーツにも付き合ってくれる、とーっても良い彼氏かな」
「自分で言うの?」
「でも、事実でしょ」
「驚くことにね」 凪が歯を見せて破顔した。
 あ、その笑顔。

「ああ、やっぱり笑ってるのが良いよ」

 俺のだけの女の子。天使みたいに、ずっと。



 喫茶店を出たあとはいつも凪が好んでいる、アジアの民族風のテーマで揃った雑貨屋に足を運んだ(いわゆるエスニック風、というやつだ)。
 正直に舞ちゃんの好みのものを選ぶ自信があまりないと言うと、凪は"贈り物には、相手を思う気持ちが一番だよ"と返してくれて、少し気持ちを支えてくれる。
 凪が本腰を入れれば数分で決まるだろうに、彼女は俺を立てるように幾つか選択肢を用意してくれた。その中から俺が最終的に決める……というような感じで無事に選ぶことができ、ようやく会計を済ませ、ラッピングもしてもらう。
 無難ではあるけど、炯とお揃いで使ってもらうマグカップセットにした。

 俺以上に凪が、舞子ちゃん達の趣味に合うと良いね……とそわそわし出す。
 表の通り出て、信号を幾つか渡りながら歩いて向かう途中、反応はどうかなあ 、と俺と絡めた方の手を握ったり離したりする幼い姿の彼女の隣で、俺はもう1つの紙袋をさりげなく隠す。

 君はきっとまだ分かっていないだろうけど、さっきの店でついでにこっそり、俺と凪用のお揃いのマグも買ったんだ。だから家に着いたらすぐに開けてもらって、4人で楽しく話題にするのも良いし、一方でふたりきりの時にサプライズをしたい気持ちもあるんだ。何でもない日のサプライズ、って女の子が喜ぶイベントがあるんでしょ。

 凪はどっちが好きだろうか?

 その無垢で愛らしい表情をずっと守るためなら、俺はどうだってするよ。だからその唇で教えてほしい。

 気持ちが伝わるように強く念じながら瞳を見つめると、凪は目を細めて、そっと笑った。



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