#4−3 もう夢をみない朝に(後編)


 ただ会えるのなら、それだけで良い。
 確かにそう思っていたはずなのに、いつの間にか欲深くなっていたみたい。
 伸元はわたしだけをただ見つめて、心の底にある気持ちが溢れるような声で言う。


「凪……今日の服、似合ってる」


 あなたに会えた日は晴れで、会えない日々は曇空。でも、心の中はいつも雨が降っているみたいに冷たくて、寒いんだ。
 こうして実際にそばにいる、今も。

 ふと、"限界"とは……こういう状態を指すのだろうかと思った。
 わたしたちは、世の中からはきっと狂った関係性に当たるんだろう。潜在犯と、ただの一民間人。わたしとっては、たった一人の恋人なのに。その事を理解してくれるのは、彼の善良な同僚たちと、伸元だけだ。
 また少し長くなった伸元の髪が風になびいた。さらり、と音がするような美しい髪にもしばらく触れていなくて、もうすっかり懐かしいものだ。


 パーキングに着くといつもの公用車が見える。すぐに降り立った常守さんは"短い時間でごめんなさい"とでも言いそうな、申し訳なさそうな顔をするから、慌てて先手を打った。

「常守さん、カフェのお代、ありがとうございました。お返しします……二人分」
「あっ、そんなそんな!凪さんとはわたしまで仲良くさせてもらってるんだし……たまには、こういうのも。」
「君達はすっかり友人関係だもんな」 伸元は心なしか嬉しそうな様子で、すっと目を細めては笑った。
「良かったじゃないか凪、こういう時は礼だけで構わない」
「もう、貴方が払ったみたいな言い方して……」
「ふふ……お二人も相変わらず仲が良いですね。安心します」

 常守さんが笑って、わたしは少し照れてしまう。伸元はいつも通り、涼しい顔をしていた。

「じゃあまたしばらくお別れね」
「ああ……元気でな」
「じゃ、わたし……先に乗りますね。凪さん、また!」

 常守さんは笑顔でわたしに手を振ると、運転席に乗り込んだ。その背中を見届けて、もう一度伸元の顔を見つめ直す。
 ……すると不思議なことに、涙が溢れてしまう。

「……あれっ? 何でだろ……」
「……」

 伸元は何も言わなかった。
 いつもならすぐに伸びてくるぬくもりが今日はなくて、余計に色んな感情が込み上げる。
 飽きられちゃったかな
 伸元、続けられないって思ってるかな
 ぐるぐる考えては、わたしの鼻をすする音だけが響いている。人気が少ない通りのパーキングで良かったと心から思った。

「君が泣くと……心臓が痛いよ」 伸元の親指が頬を擦る。伸元という人の、指。体温はあたたかいのに、なぞられる感覚はひんやりとしている。

「俺は明日死ぬのか?」
「へっ?」
 突然、伸元が不可思議なこと言う。
「縁起でもないわ」
「いや……凪の顔がそんなふうに言ってるから。俺がどこかに居なくなるみたいに」

 ふと、伸元の目元が陰る。
 この人のあまりに綺麗な目元は昔から、彼を表わす一つの部位としてよく働いた。怒りも、悲しみも、喜びも、宜野座伸元の人柄をすべて目元に反映してしまう。一途で不器用、そんな所が特別好きなところだ。

「そんな顔してる? わたし」
「うん。だから……今すぐ俺を安心させてくれ」

 そう言って、伸元は両の腕を広げた。一歩近付くと、一歩近寄ってくる。導かれるようにそっと胸元に寄ると、改めて体格のちがいを知った。背中のかたちを確かめるように辿って、腰のところでゆるく抱き締められる。

「凪」
 とびきり優しい、高いような低いような、じんわり熱をもった声が鼓膜を震わせる。

「君を愛してる」

 幼い頃はよく一緒に遊び……いつの間にかどこかへ行った征陸くんは、高等科……雨の日の玄関で再会し、幼いままだったわたしに夢という名の人生の指針を与えてくれた。
 夢を叶えたあなたのそばで。多くの仲間を失ったあなたのそばで。迷わずに、わたしをずっと捕まえていてくれた。
 宜野座伸元の、その並々ならぬ努力と才能に。


「伸元……、ありがとう」

 つま先を伸ばして必死に首を伸ばした。
 正確なあなたの表情を読み取りたくて……

「わたしも、いつもいちばん好きだよ」


 孤独を知るわたしたちだから、ふたりでいることのあたたかさを、より知った。
 清潔な伸元のかおりを肺いっぱいに吸い込むと、心臓がどくんと撃たれたように痛くなる。離してはいけない、もう会えないからと、もう一人の自分が叫ぶ。それでも時間は止まらないから、伸元の首から、顔を離した。

 ……あなたの泣きそうな顔なんていつぶりに見るだろう?

「またな、凪」
「うん……また。行ってらっしゃい」

 するりと身体を離すと、名残惜しそうな彼の手のひらがわたしの髪を乱暴に混ぜる。ずっと知ってる指。

「行ってくる」

 年を重ねたって褪せない磁器のような指が、わたしの腫れたくちびるをなぞった。まぶたは涙で熱く、喉は震えて奥歯ががちがちと音を立てる。それでも伸元は気にせずに顔を寄せてくる。
 目の前がやわらかなエメラルドに包まれた。
 短い触れるだけのキス。

 常守さんのクラクションが鳴って、わたしたちはプッと吹き出した。

「さすがに怒られそうだ」
「うん……行って。わたしの分も、謝っておいて」
「次は凪がお茶でも奢ってやるんだな」 そう言ってわたしに背中を向ける。歩くたび、伸元の靴がアスファルトを鳴らして、離れていく。

「わたしたちが、でしょ?」

 大きな声で言うと、伸元の足が止まる。大きな身体が振り返った。
 両方の瞳がきゅうと結ばれて、かたちのいいくちが引き上げられた。わたしの一番好きな伸元の笑顔だ。

「いや、俺が……かな?」


 なぞめいた目で、くちびるに人差し指を立てた伸元は、そのまま後ろ手を振って車に乗り込んだ。


 ふたりの乗った車が小さくなるまでずっと見送る。
 俯くと彼を想像した緑のスカートが揺れた。その光景だけで、心が踊る。それでよかった。わたしは伸元のことが好き、ただそれだけで。

 最後の挨拶に、確かにまた会える予感がしたから、ひとりきりの今日も無事に終えられそうだった。





 ーーー【完】




#title by まほら

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