骸のように色をうしなう(祈→願)
今描いてる絵を見せてください。
はじめての口実はこんなようなものだった。本当は、無償のあたたかさと、空間を、求めていた。
私が、素顔でいられる場所を。
「そういや嬢ちゃんも、元絵描きだっけか」
征陸さんは時々、私の経歴を思い出しては、笑って言った。私の本当の§r前を知っているから。
「本当に、下手な絵描きですけどね」
「いや、俺には、なかなかできない色使いだぜ」
「慰めをどうも……いいんです。私、デッサンなら学年一くらいの熱量でしたから」
彼の広い背中が、揺れる。
征陸さんの右腕のゆったりとした動きが、やわらかい線を描いている。
微量な感覚だけれど、私の右眼が、細部をフォーカスするように動くのを感じとる。
人の横顔のような絵だ。モノクロだけの紙の上に、濃紺で陰影がつけられていく。
「今は色の大切や、微妙な変化がよく分かります。色ってこんなに見る側に影響を与えるものなんですね」
「そうさな。色の数はゴマンとある……その絵を見たときの感情や環境、感覚っていうのは、数値化出来ないものの一つかもしれん」
「征陸さんは、色彩感覚をどこで鍛えたんです?」
「何も特別なことはしてない。ただ素直に、心の内にある色をのせる……それだけだよ」
何て、今の台詞はくさいか? と笑って、征陸さんは振り向いた。目尻のたくさんの皺がぎゅっと寄って笑う顔は、いくつか若返ったようだ。
若干落とされた室内照明の元で、征陸さんの髪は、ワインのように深い赤みを帯びていた。
「だからお前さんの描いてきた絵も、立派な作品なんだ」
征陸さんは静かに筆を置くと、少し離れたところにいた私に手を差し出して、今まで座っていたカンバスの前に導いた。
「例えそれが周りから拍手喝采を得るものじゃなくても、お前さんの目と感覚が作ったパレットと、その色がのった、この世にたった一つの絵じゃないか」
────福炉執行官
「俺は、昔の凪の色使い、嫌いじゃないぜ」
征陸さんは私の手に筆を握らせると、仕上げを頼んだぜ。
そう言ってお酒を取りに行ってしまう。
「何色を使ってもいいの?」
その背中に叫ぶように尋ねると、負けないくらいの声で返ってきた。
「それ、お前さんを描いた絵だ。好きにしな」
───福炉
「大丈夫か、福炉」
目の前に、青みとグレーを混ぜた須郷の両目があった。身動ぎをして、臀部に鈍い痛みを感じた。
刑事部屋のファンが普段より大きく聞こえる。タブレットに乗ったままの指が、意味不明な記号を画面に打ち込んでいた。
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黒とモスグリーンを貴重とした画面に、長時間見つめても疲れないであろう、色彩を考慮された白色の文字が、激しく点滅していた。
「お前が居眠りなんて珍しいじゃないか」
須郷が軽口を挟むことの方が珍しい。書類作成が順調なのだろうか。
監視官の席を見ると、どちらも空席になっていた。
「彼女達は局長の呼び出しだ」
ふと、宜野座さんと目があって、少し居心地が悪くなる。あんな夢を、見たあとだからだろうか。
キャスターを転がしながら座り直した私に、宜野座さんは何も言わずにいてくれる。
須郷の、探るような無言の眼差しだけが、心に痛かった。
時々、思う。あの時、私が、征陸さんに深く入り込んでいなかったら。考えると、恐ろしくてたまらなくなる。
世の中にゴマンと在る色を、きっと知らないままだった。
怖いのはもう一つ、私は征陸さんのくれたあの頃の空間に染まったままだってこと。
やさしくて、強くて、あたたかいあの眼差しと、鼓膜を震わす厳しい声色を、今だって忘れることなんて出来ない、怖さ。
あの日の絵の具の紺色と、ワインみたいな髪色を今だって右眼が覚えている。日常の中に、右眼は、無意識にあの色を探していた。
右の義眼が、この色を覚えている間、ずっととらわれてしまうだろう。
色彩感覚を知らない私の絵を認めてくれたただ一人の貴方。
「すみません。仕事に戻りますね……」
口ではそう言いながら、右眼はこっそり、あの色を映し出す。
黒とモスグリーンを紺と朱に上書きした時、私はようやく安心出来るのだった。
#title by 夜にたねまき
(原題:〈骸のように色をうしなう〉)