水に存えること
夜空に浮かぶ、いく筋もの煙りに、たったひとつの願いを巻きつける。届くように、祈るように、あなたが近くに感じられるように。
狡噛さんの近くから微動だにしないわたしに、呆れたようにものを言う。
「お前……、ずっとそんな所で、寒くないのか」
「寒いです……でも、平気」
溜め息を付くのが分かった。人を簡単にはねのけようとしないのは、彼の、変わらない、優しいところだ。
眼下に落ちる街並みは、ネオンで煌めく。そこに住む人たちは、海の向こう岸。見たこともない、本物の淡い波色の風景を想像して、瞼を閉じる。無駄なこと、むだなこと。
狡噛さんのいた世界、手の届かない暮らし、手の届かない人、だった。
人として正しいと思っていた狡噛さんは、執行官になって、あの人みたいに煙草をくゆらせる。
「狡噛さん、狡噛さん」
水は川を伝って、自然と低いところへ流れていく。そうしてひとつの大きな海になる。人の心も、同じように流れ易いもの。狡噛さんはどちらなの?
「変わらないで下さいね……、わたしを正しくさせてください」
「もう、その役目は俺じゃない。俺は、お前と同じ、ギノの元で飼われる猟犬に過ぎない」
碧い瞳がそう言って、唸る。わたしの思い出はそう簡単には流れてくれないみたいだった。
狡噛さんは、すべて過去のことなんだと、非情なまでに、否定的な瞳で言っていた。
流れられないなら、ずっと同じところに漂っていたいんだ。
「お前は昔から、優しすぎるんだよ。あんまりそんな風だと、いざというとき、判断が鈍るぞ」
「そうさせたのは、狡噛さん、あなたですよ」
ただの獣じゃなくて、人間らしさをくれたのは、監視官の頃の狡噛さんだから。
宜野座さんも、頑張ってはいるけど、明らかに揺れている。狡噛さんが堕ちてからは特に歯止めが効かないようだ。
何かして支えてあげられたらいいのに、生憎、そのような立場を持ち合わせていなかった。
狡噛さんは、思い出したように笑って話した。
「いつまでも福炉がしょげていたら、アイツだって、面白い顔はしないだろ」
揺れる煙を追って視線を上げると、星が所々散らばっていた。白い息と混ざって、黙って消えていく。無惨なかたちで死んだ同僚の声を、聞いた気がした。
「わたしの使命は、少しでも永く生きて、あなたを見守ることなのかもしれません。あいつの分まで」
わたしが笑うと、狡噛さんは静かに首を振った。
今は、今だけは、違うなんて言わないで。
「……福炉、俺達の使命は、一人でも多くの潜在犯を執行することだ。それが、執行官の役割だ。」
わたしは、貴方の心を殺した何かを知りたい。だから、今は、
「解りました。」
やっと今、気付けた。狡噛さんは、地平線みたいに、ずっと遠くにいつも在る。立場が一緒になっても、いつも遥か先に在る。
だからこそ、いつだって、人の流れる気持ちを受け止めてくれる海のようなひと。一度海に着いたら、その先はずっと波模様だけが続いている。
「狡噛さんを信じます。だから、いつも側にいます」
そこに、その先を運ぶ船はまだ、ない。
わたしの言葉に、狡噛さんは口の端を上げた。
#title by 夜にたねまき
20190207